【徳間書店】
『プリズンホテル』

浅田次郎著 



 別に自慢するわけでもないのだが、私が生まれ育った温泉街にはヤクザがいた。いや、観光がメインの温泉街だからこそ、ヤクザが身近にいても不思議はないのかもしれないが、私の家のすぐ近く、小学校への通学路にヤクザの事務所があったのは、けっこう有名な話だった。名前こそ忘れてしまったものの、そこには「○×組」と書かれた看板がかかげられていたし、一度、開けっぱなしになっていた玄関からふと中を覗くと、立派な額縁に飾られた「○×組」という文字が見えたのもよく憶えているが、一番印象に残っているのは、やはり刺青だろう。

 私が小さい頃住んでいた家には、最初は風呂がついておらず、家族みんなで近くの公共浴場へ行くのがならわしになっていたが、そこで私は何度も、背中に刺青を彫りこんだヤクザの姿を見かけた。逆に言えば、刺青があるからこそ彼らがヤクザであることがわかったのであって、もしかしたら、普段からヤクザとすれ違っていたのかもしれないが、裸の人たちの間に浮かび上がる刺青は、子供心にもひどくインパクトがあった。
 今にして思うと、彼らはどういう心境で公共浴場に通っていたのだろうか、とふと考える。背中の刺青は、自分がカタギでないことの証拠であり、あるいはそのことを誇らしげにかざしてみせていたのかもしれない。だが、私の記憶の中にある、浴場でひとり、黙々とからだを洗っているヤクザの姿が、なんだかひどく場違いで、肩身がせまそうに見えたのは、私の思い過ごしだろうか。

 本書『プリズンホテル』は、彼らヤクザが唯一、心の底からくつろぐことができるホテルを舞台にした物語である。何しろそのホテルは、ヤクザたちによって経営される、ヤクザ団体専用の――というより、どんなワケアリの人物であっても、来るもの拒まずのモットーでおもてなしをする珍妙なホテルなのだ。

 小説にしろ映画にしろ、日本を舞台にした作品で拳銃を取り出してもまったく違和感がない職業は、警察かヤクザしかない、とよく言われる。これがもしアメリカであれば、一般市民が戸棚からふと拳銃を持ち出してもおかしくはないが、日本で同じことをすれば明らかに変だ。ゆえに、警察でない人間に拳銃を持たせるには、どうしてもヤクザとの絡みを使わざるを得ない、というのが日本の創作舞台の実情であり、だからこそ、飯干晃一の『仁義なき戦い』に代表される、いわゆる「ヤクザもの」は、どうしてもヤクザを暴力や、血なまぐさい抗争といったバイオレンスと結びつけてしまう。

 だが、本書の著者である浅田次郎は、そんなヤクザの暴力的なところではなく、義理と人情を大事にし、何より筋を通すことに重きを置く、そんな「やさしい」ヤクザ像を打ちたてることに成功した。ヤクザがリゾートホテルを経営するというミスマッチ、そしてそこから生まれてくるユーモア感覚は、たとえば本書の最初に紹介されているホテルの平面図に書かれたコメント――「不慮のガサイレ・カチコミの際には当館係員の指示に従って下さい」「客室のドアは鉄板、窓には防弾ガラスを使用しておりますので、安心してお休み下さい」等――ひとつとってみても、どこか人を食ったようなところがあって、思わずニヤリとさせられてしまうのだが、「生きてる人間も死んだ人間も、善人も悪人もそっくりもてなす極楽ホテル」を築く使命に静かに燃えている、「奥湯本あじさいホテル」のオーナー兼ヤクザの親分の木戸仲蔵や、筋骨隆々のいかつい大男である黒田をはじめとするヤクザ従業員の、いかにもホテルマンらしくない、不器用でどこか時代がかった接待――「いったんゲソつけられたお客人は身内も同然。誠心誠意、命がけで尽くさせていただきやす」――は、それに輪をかいて読者の笑いを誘うことは間違いない。

 そしてキャラクター的に面白いのは、何もヤクザたちばかりではない。誰よりもホテルマンとしての責任感に強く、客のために真摯でありすぎるためにクラウンホテルの鼻つまみ者として、何年も地方ホテルを渡り歩かされた経歴を持つ支配人の花沢一馬は、ヤクザたちを相手に自分の指をつめると言ってのけるだけの度胸と、自分のホテルマンとしての仕事に頑固なまでにこだわりつづけている男であるし、板場の板長を勤める梶平太郎は、借金を苦に自殺した前のオーナーの時代からこのホテルで働く古株であり、相手がヤクザであろうと誰であろうと自分の信念を曲げようとしない頑固者、一方のフランス料理の若きエリート服部正彦も、自分の料理は誰にも負けないという自信とともに、ことあるごとに板長とぶつかってしまう難物だ。

 ようするに、このホテルに集まってきたのは、誰もが自分の仕事にあまりに真摯であろうとするがゆえに、世渡りがあまりうまくなく、損な役回りをさせられた、いわば一本気の通った頑固者ばかりなのである。唯一頑固者ではないのは、ゴンザレスやアニタといった、外国人労働者たちだろうか。だが、彼らの話すタガログ語や、奇妙なイントネーションの日本語はたしかに滑稽ではあるが、じつはエリートホテルマンではぜったいに真似のできない、朴訥であるがゆえに客に対して尽くすことができるむきだしの誠意は、よく考えてみれば、仲蔵オーナーが考えている究極の「極楽ホテル」には、なくてはならないアイテムであることが、おそらく読者にもわかってくるに違いない。

 安息という言葉を口にしたとき、ぼくはそれがふしぎなくらいこのホテルにふさわしいことに気付いた。
 ヤクザが経営し、懲役がえりが訪れ、へんてこな従業員が不器用に世話をし、まがいものの調度品で飾り立てられたこのホテルが、どうしてこんな安息をもたらすのだろう。

 今日、自分以外の何を信じることができるのか、と考えたとき、私たちは「信頼」という言葉があまりにも胡散臭い響きを持つ時代に生きていることをあらためて思い知らされる。政治家はもちろんのこと、銀行員も医者も警察も弁護士もかつての信頼はすでに失われ、あらゆる価値観が急速に変化していくこの時代、確かなもの、信頼すべき基準を何ひとつ持つことを許されない私たちは、じつは肉体的にも精神的にも安息のない日々を生きていると言わなければならない。
 そんななかにあって、どんなに不器用でも、どんなにスマートでなくとも、人の心をきちんと汲み取り、二心なく人と接することのできる、確かな信念とともに生きている人たちで溢れる「奥湯本あじさいホテル」のような存在、そしてそこで引き起こされる心あたたまる物語は、きっと読者にある確信を抱かせることになるだろう。

 それは、たとえドアに鉄板が、窓に防弾ガラスがなかったとしても、けっしてチンピラのような小物ではない、忠義に厚いヤクザ従業員たちがいれば、私たちは間違いなく安心して休むことができるだろう、ということであり、地元の人たちからは「プリズンホテル」と蔑まれるこのホテルが、せちがらいこの世から完全に隔離された、まさに極楽ホテルである、ということでもある。

 仲蔵オーナーの甥で、極道小説を書いている偏屈な小説家、大手商社を定年退職したばかりの夫と、その夫と離婚しようともくろんでいる妻、借金を苦に一家心中しようとしている家族、そして実際に心中してしまった前オーナーの家族たちの幽霊――「来るものは拒まず」を貫いた結果、本当にワケアリな客ばかりが集まってしまった本書『プリズンホテル』での二日間を、ぜひ楽しんでもらいたい。(2001.03.31)

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