【筑摩書房】
『<ひと>の現象学』

鷲田清一著 



 「まぎれもない自分自身」というのは、以前の私の書評のなかによく出てきたフレーズのひとつであるが、こうした言い回しの根底には、自分というものの内側に揺るぎなく存在しつづける、自分を自分たらしめる「核」のようなものがあるという前提がある。以前の私は、そうした「まぎれもない自分自身」というものについて、このうえなく憧れていたところがあった。というのも、私にとっての「自分」というものが、どうしても信用できないという思いを払拭することができずにいたからであり、その思いは、じつは今もなお変わってはいない。まぎれもなくこの私を私たらしめる要素であるにもかかわらず、それがどんな形をしているのか、どのような行動原理で反応するものなのか掴むことのできない、自分でも何をしでかすかわかったものではないこの「自分」というやっかいきわまりない代物を、どうにかして確固たるものとしたい、そうしなければ、自分はいつまでたっても曖昧で不安定な自分から脱却することができない、という強い願望が、その頃の私にはあった。上述のフレーズのこだわりは、そうした願望の表れだと言えなくもない。

 自分の内側に厳然たるものとして存在する「核」としての自分――それがただの幻想にすぎないという真実に気がついたのは、つい最近のことだ。「まぎれもない自分自身」などというものはない。あるのはただ、自分とそれ以外のあらゆる要素とを比較し、あるいは何らかの関係や縁をもつことによる同化作用と異化作用からかろうじて読み取れる、相対としての「自分」のみである。これは自画像を描くさいに、輪郭をきっちり書いて自他の区別をはっきりさせるのではなく、自分の外側を塗りつぶしていくことで逆に自分を浮かび上がらせるという手法の違いに似ている。最終的にはどちらも自画像になるはずなのだが、今の私にとっては後者の理論のほうが、むしろすっきりくるものがある。今回紹介する本書『<ひと>の現象学』は、私たちがふだん何気なく用いている概念――たとえば「人間」、「恋」、「家族」、「死」など――について、哲学的な視点から解釈を試みるための入門書であるが、その基礎にあるのは、ある概念に対する相対的なものの見方である。

 けれども、「わたし」として統合された人格は、あくまでそのつど統合されてあるのであって、もともとそのような人格がそれとしてあるわけではない。生きるというのは他なるものとのたえざる遭遇のなかにあるということであり、そのつど「わたし」の存在は綻び、繕いなおされるものである。

 本書のタイトルにもなっている「現象学」について、私がまず思い浮かべるのは、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』に代表されるミステリー小説だったりするのだが、そこに登場する矢吹駆はフッサールの現象学を推理に取り入れる探偵、という設定となっている。「現象」とは、何らかの形(象)をともなって立ち現われてくること。つまりそこには、もともと確固たる「何か」があるという視点ではなく、何か外的要因が複雑に絡み合うことで、はじめてその形の存在が許されるという思考が通底していることになる。その考えをありとあらゆるものに当てはめていくことが、私の理解するところの「現象学」の考えである。

 私たちにとって、あまりにあたり前すぎて、もはや疑問にすら思っていないこと――その最たるものとして挙げられるのが、他ならぬ自分自身である。それも、たんなる生物としての自分ではなく、自我を持つ人間としての自分というものが、今ここにこのようにしてあるということについて目を向けている本書の試みは、非常にラディカルなものである。そして「現象学」というタイトルを冠しているからには、そこには自分自身をとりまくあらゆるものが、いかにして自分を自分たらしめているのか、という視点が貫かれている。そう、そこには「自分」という確たるものがあるという視点とは真逆のものがあるのだ。言い換えるなら、人としての自分は現象としてどのように立ち現われていくのかが、本書のテーマということになる。

 本書では人の顔からはじまって、こころや家族に対する親しみについて、あるいは「個」としての自由や市民としての認識、多様性や人間であるということ、そして死というものについてそれぞれ章を割り当て、古今東西の哲学者や芸術家、文学者などの引用をたくみに織り込みつつ書かれているが、いずれもあらためて思考を巡らせてみると、じつは私たちが思っているほど確たるものというわけではないことが見えてくる。たとえば第一章の「顔」についてはこんな感じである。人は他人の顔をまじまじととらえることはできない。そうしようとすると、相手はかならずその視線を外そうとするか、あるいははね返そうとする。人が他人の顔を見ることができるのは、相手がよそに視線を向けているときに限られるが、それはあくまで顔面であって、個人を個人たらしめる「顔」ではない。しかしながら、私たちはある顔について、それが自分のよく知っている人の顔か、あるいはたんなる有象無象としての顔であるかを判断することができる。

 見ていないと強烈に押し迫ってくるにもかかわらず、こちらから見ようとすると、即座に霧のように消え失せてしまう人の「顔」――本書を読み進めていくと、こんなふうにあたり前のものがとてつもない不思議なものとして立ち現われてくることになる。そしてそれは、私たちが知らなかったことというよりは、意識して知らないようにしてきた事柄でもある。たとえば、人のこころはどこにあって、どのようなものであるのか、という命題は、それが目に見えたり、あるいは手にとってたしかめることができないものであるにもかかわらず、私たちは他ならぬ自分の「こころ」の存在を信じて疑っていない。これなどは、「自分の目で見たもの、耳で聞いたものしか信じない」と言っている人への有効な反証となりえるものであるが、その根拠がどこからやってくるのか、という点について、私たちは驚くほど何も知らない。そうした、意識することのない「無知」を思い知らされる、という意味において、本書はラディカルな命題を扱っている。

 わたしの「こころ」はわたしには見えない。それは、わたしの名前がそうであったように、他者から贈られるものなのだ。――(中略)――他者に大事にされることでかろうじて繕われる「わたしのこころ」、それはわたしには、いつかだれかによって大事にされたはずのものとしてしか感受できないものなのである。

 人はひとりでは「人」でしかなく、人と人との間にあることではじめて「人間」となる、とはよく言ったもので、私を形作る要素は、他者との関係性のなかにあってはじめて立ち現われるものである。他者の存在がなければ、私たちはただの「人」でしかないのだ。そして家族や共同体など、人と人とのかかわりの形が変わっていけば、当然のことながら人間としての形も以前とは異なるものとなる。まぎれもない自分自身という、ある種の偏見に目を向け、ではそもそも<ひと>とは何なのかと問いかけた本書は、現代に生きる私たちがかかえるさまざまな問題に目を向け、思索するための大きなヒントとなってくれるに違いない。(2014.03.09)

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