【講談社】
『魍魎の匣』

京極夏彦著 

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「シュレディンガーの猫」と呼ばれるパラドックスをご存知だろうか。これはもともとオーストリアの物理学者アーヴィン・シュレディンガーが持ち出した、量子力学における不完全性を示すための思考実験で、簡単に説明すると、密閉可能な箱の中に、いつ作動するかわからない毒ガス発生装置と猫を一緒に入れたとき、箱の外から見ているぶんには、箱の中の猫が生きているか死んでいるかは五分五分――つまり、どちらでもない曖昧な状態が続くが、その箱のふたを開けた瞬間、猫の生死が不動の事実として確定されてしまう、というものである。いっけん、あたりまえのようにも思えるが、ここで重要なのは、箱の中の猫の生死は、その箱を観察する私たちの意志に依存される、という点である。つまり、私たちがふたを開けて中を覗いてみなければ、猫は理論上、永遠に生きもせず死にもしない、という大いなる矛盾を抱えることになってしまうのだ。

 箱はね、蓋を開けて中を確認しなければ意味がないものじゃない。中に何が入っているかなどそう重要ではないのだ。箱には箱としての存在価値があるのだよ。

 本書『魍魎の匣』は、偏屈な古本屋の主人にして憑き物落としを生業とする陰陽師でもある「京極堂」こと中禅寺秋彦が、不本意にもかかわってしまうことになる猟奇的事件の謎を解き明かす、という京極堂シリーズの第2作にあたるミステリーであるが、本書の一連の事件にかんして言えば、人間の中に住まう闇の部分が「魍魎」というわけのわからないモノとなって、次々と人々を狂気の彼方へと連れ去ってしまった、としか説明のしようのないものだろう。

 相模湖での発見を皮切りに、何者かの手によって続々と遺棄されていく人間の手足、瀕死の重傷を負い、箱型の奇妙な研究所に入院していた柚木加菜子を襲った、衆人環視のなかで起こった誘拐事件、その姉であり、元銀幕スターでもあった陽子の数奇な運命、そして魍魎を「御筥様」の中に封じ込めてしまうという、胡散臭い新興宗教――前作『姑獲鳥の夏』と同様、そこで起こった奇怪な事件を個々に切り離して取り上げたとき、見えてくるのはまったくなんてことのない、ありきたりな事実でしかないにもかかわらず、それらの事件のなかに何らかの関連性を求めようとした瞬間、そこには何とも形容しようのない薄気味悪いものが垣間見えてくることになる。それはたとえるなら、ロシアのマトリョーシカ人形のごとく、入れ子になった箱をひとつずつ取り出しては開けていく、といったものだろうか。ふたを開けるたびに、少しずつ真相は明かされていく。だが、その全容はなかなかはっきりと見えてはこない。そして箱は取り出すたびに小さくなり、ふたは開けにくくなっていく。はたして、最後の箱の中には何が入っているのか――あるいは何が残っているのか、ということに思いを巡らせたとき、私たちはある種の不安を覚えることになる。この何重にも封印を施された箱の中身を、はたして私たちは見てしまってよいものなのだろうか、と。

 京極堂という人物は、本書の中ではたしかに「探偵」という役を演じる者である。それは間違いのない事実だが、私たちが一般的に知悉しているタイプの探偵――「観察」「推理」「実験」という流れを経て、合理的に謎に挑み、そのトリックを解き明かしていくいわゆる探偵とは一線を画す存在であることも間違いない。では、どこがどう違うのか、という問いに答えるためには、まず「探偵」が果たす役割について触れる必要があるだろう。

 ミステリーの王道とも言うべきパターンのひとつとして、へっぽこ刑事とペアとなる形で登場する探偵、というものがある。ここでの「へっぽこ刑事」の役割は、警察組織という、およそ柔軟性に欠ける集団のなかで、ステレオタイプな発想でしか事件をとらえることのできない人間の代表をはたすことにある。こうした観点からミステリーというものをとらえたとき、「探偵」とは、その対象となる事件に対して、それまでとはまったく異なる発想を示唆する者、つまり、私たちが唯一絶対だと信じて疑わない、一面的なものの見方に疑問を投げかける者のことであり、ときには常識の破壊者としての役割をも受け持つ者でもあるのだ。

 そういう意味では、京極堂が演じる「探偵」は、笠井潔の『バイバイ、エンジェル』に登場する矢吹駆のもつ探偵像に近いものがあると言えよう。ただ、矢吹駆が現象学的な視点から物事の本質を見極めようとするのに対し、京極堂の場合、物事の本質を妖怪変化、つまり科学的、論理的な視点ではけっして説明のつけられないもののせいにしてしまうのである。
 そして、ここで勘違いしてほしくないのは、京極堂はミステリーにおけるトリックを「物の怪」のせいにしてうやむやにしてしまうのではなく、犯罪を引き起こし、はたから見れば猟奇的行為に手を染めてしまった人間の心に潜む闇の部分を、便宜上そういうものとして名づけているだけだ、ということである。

 そう、動機とは世間を納得させるためにあるだけのものに過ぎない。犯罪など、こと殺人などは遍く痙攣的なものなんだ。真実しやかにありがちな動機を並べ立てて、したり顔で犯罪に解説を加えるような行為は愚かなことだ。――(中略)――そんなものは幻想に過ぎない。世間の人間は、犯罪者は特殊な環境の中でこそ、特殊な精神状態でこそ、その非道な行いをなし得たのだと、何としても思いたいのだ。

 死体をバラバラにする理由として「持ち運びやすくするため」というものがあるとする。それは、運ぶものが「死体」でさえなければ、きわめて常識的な判断である。だが、ではなぜ人を殺したのか、という問いに対して、京極堂はいわゆる怨恨や嫉妬、保身といった動機づけをすることを極端に嫌う。そう、犯罪が起こるのは、本人にさえ説明のつかない得体の知れない感情であり、彼の言葉を借りれば「通り物みたいな狂おしい瞬間の心の振幅で成立」してしまう。逆に言えば、人は条件さえそろえば、誰もが犯罪をおかしてしまう可能性をもつ、脆弱な心の持ち主なのだ。

 だからこそ、彼は「探偵」でありながら、その事件の裏に隠された真相のすべてをさらけだそうとはしない。それが現実を生きる人たちにとっていかに無意味な行為であるか、彼にはよくわかっているのだ。そして、いわゆる妖怪変化のたぐいなど、ほんとうはこの世に存在しない、ということも。だが、ときに殺人さえも引き起こす人間の心の闇は、なんらかの方法で「形」を与えなければ収拾がつかなくなる場合がある。起きて当然の現象を当然でないような形に置き換える――その変換のダイナミズムこそが妖怪であると京極堂は語るが、それはまさに、私たち人間が誰しもかかえる心の闇に対しても有効であることを、彼は教えてくれる。

 本書の中には、たしかに「魍魎」がいる。それは「箱」という外枠を与えられることによって、かろうじて存在が許される、わけのわからないけだものである。はたしてあなたは、それでもなお、最後の箱のふたを開けるだけの勇気が――自分の中にもあるどす黒い狂気を見据えるだけの覚悟があるだろうか。(2002.12.21)

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