【文藝春秋】
『まほろ駅前多田便利軒』

三浦しをん著 
第135回直木賞受賞作 



 幸せの形というのは人それぞれだが、その幸福が望んでも得られないものであるとわかってしまったときに、人はどうやってそこから立ちなおり、あらたな幸福を探すべく歩いていけるようになるのか、ということをふと考える。

 より正確に言うなら、人は生きているかぎり、より幸福になることを望まずにはいられない。そして人としての幸せというものを考えたときに、そこには多かれ少なかれ他の誰かからその存在が望まれている、という要素が含まれているものだ。たったひとりだけの幸福、というものは厳密には存在しない。仮にあったとしても、それはもはや「人として」の幸福とは言いがたい。本書『まほろ駅前多田便利軒』を読み終えて思うのは、そんな「人として」の幸せの形である。

 主人公の多田啓介は、東京の郊外――神奈川に突きだすような形で存在するまほろ市で便利屋を営んでいる。まほろ市内に住む人々の、ありとあらゆる雑事を引き受けるのが彼の仕事であり、それこそ旅行中のペットの世話や倉庫の整理、庭の草むしりなどなど多岐に渡るのだが、そうした雑事の大半が、その気になれば「便利屋」の存在がなくともなんとかなるようなものであることに、読者はすぐに気づくことになる。とくに専門知識が必要なわけではなく、時間や体調の都合さえつけば当人でもやれなくはない雑務、あるいは簡単なやり方さえ教えれば、友だちか誰かに頼んでも支障がない仕事――にもかかわらず、便利屋としての仕事がそれなりに成立している背景には、人と人との距離というものが微妙に絡んでいる。

 わざわざ金を払って便利屋に雑務を依頼するからには、そうしなければならない、あるいはそうせざるを得ない理由がある。そのあたりの事情が、「多田便利軒」をめぐる一連の騒動の火種と結びついているわけだが、あくまで金で雇われて雑務をこなすにすぎない便利屋としての立場を考えるなら、この「事情」というものに必要以上に突っ込むのはトラブルのもとであるだけでなく、それこそくたびれもうけになりかねない。個人の事情に斟酌せず、ドライに依頼をこなす――それが便利屋としてのあるべき姿だと言えるが、本書の多田の場合、そのあたりについては多分に要領の悪いところがある。高校時代の同級生ではあるものの、けっして仲が良かったというわけでもない行天春彦が、なしくずし的に多田のところに転がりこみ、仕事の手伝いだか邪魔だかをするようになったのも、そうした彼の要領の悪さに起因している。

「だれかに助けを求めることができたら、と思ったことがあったからだ。近しいひとじゃなく、気軽に相談したり頼んだりできる遠い存在のほうが、救いになることもあるのかもしれないと」

 けっして過度な親切心があるわけではない。上述の多田の言葉もあくまで理念であって、それと現実として金を稼いでいくこととは別問題であることを充分自覚している。だが、そんなふうにふだんは割り切って便利屋をこなしていた彼の前に、その真逆のことばかりしでかす行天が現われる。逆に言うなら、多田の「要領の悪さ」は、行天の存在によって目に見える形をとるようになった、ということである。

 本書の面白さは、多田と行天という毛色の異なるキャラクターによってもたらされる漫才のごとき温度差にあるのだが、このふたりの関係を維持するきわめて絶妙なバランス感覚こそが、本書最大の特長だとも言える。無二の親友というわけではない、便利屋の社員として雇ったわけでも、共同経営者というわけでもない。居場所のない行天が、居候するような形でただそこにいるという関係――にもかかわらず、本書内で起こるさまざまな怪しげなトラブルについて、その解決の糸口として少なからず行天の存在があるという、なんとも不思議な関係は、不安定ながらなんとも魅力的な人と人との距離感を演じている。そしてこの距離感は、そのまま便利屋と、便利屋を利用する人とのあいだにある距離感にもつながるものである。

 本書冒頭において、多田は曽根田という老婆のいる病院を訪れている。他の人たちは、彼が老婆の息子であることを疑っていないが、じつは多田は「見舞いに行く」という便利屋としての仕事をしているにすぎないことが明かされる。この冒頭に象徴されるように、多田に便利屋の依頼をする者たちは、多かれ少なかれ「家族」というもっとも近しいであろう人間関係について、どこか問題をかかえている場合が多い。さらに言うなら、多田にしろ行天にしろ、一度は家庭を築くということに失敗している身である。もちろん、それはふたりが望んだ「幸福の形」ではないはずだ。だが結果としてその幸せは壊れ、それでもなお死ぬことなく生き続けている。多田と行天、このふたりが抱えている過去がどのようなものであり、本書の事件をつうじてそれぞれが何を思うのか、という点も、本書の読みどころのひとつである。

 高校時代に切断された行天の小指が、元どおりくっついたように見えても、それですべてが元どおりになったというわけではなく、やはりどこかいびつな形を残している。一度壊れたものは、二度と元の形に戻ることはない。だが元に戻らないことが、その人の幸福を遠ざけるということにつながるわけではない――ふたりの便利屋としての仕事が、幸福を求めずにはいられない人間たちに、そのささやかな幸福の形をもたらすことを願わずにはいられない。(2011.09.20)

ホームへ