【ソニー・マガジンズ】
『紙葉の

マーク・Z・ダニエレブスキー著/嶋田洋一訳 

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 基本的に、本というのは何かを記録するために書かれるものであるが、それは誰かがその本を読む、ということを前提としているはずである。なぜなら、何かを記録しておくというのは、記録する当人が忘れないためにしろ、誰かに記録を伝達するためにしろ、正しく読まれなければその目的が達成されないからである。そして、何らかの記録を本としてまとめるという作業は、たとえその元となった原稿がどこかのチラシの空欄に書かれたような代物であったとしても、そこに本としての秩序をあたえることを意味する。無秩序に散乱した原稿の断片は、そのままでは本にならない。原稿をひとつにまとめ、順序をつけ、失われたものがあれば補完したうえで、はじめて本という形に変化することができる。

 だが、はたしてそうなのだろうか。

 この世のあらゆる英知を収めた幻の本、読んだ人間を不幸にするという呪われた本、あるいは、けっして終わることのない物語が書かれている本など、本という形体にかんする神秘や伝説のたぐいは多いし、[1]そうしたものの存在に惹かれる者も多い。[2]それは、そうした本が上述の目的から逸脱した存在だからではないのだろうか。たとえば、「読んだ人間を不幸にする本」などというものは、どう考えても人に読まれることを前提としているとは思えないのだが、[3]もしその推論が正しければ、そこには別の理由がある、ということになる。そして、別の理由を考えるには、それが本という形となる前の「元原稿」について考える必要が出てくる。

 はたして、「この世のあらゆる英知を収めた本」や「読んだ人間を不幸にする本」の原型となったものとは、いったい何なのか? あるいはそれは、「元原稿」などといった生易しいものではなく、私たちが普段の生活のなかでは想像することもかなわない、おそるべき力をもつ「何か」ではないのか? そして本来であれば、この世界に存在するべきでない何かを「封印」するためにこそ、本の形として書きあげられたのではないか? 本がこの世の秩序を象徴するものであり、その秩序の形がかろうじて本という形体をとどめているのだとすれば、そうした力を封じ込めた本がどのような異形の姿を隠していたとしても、不思議ではないに違いない。

 もう選択の余地は一つしかない。ザンパノが仕上げられなかったものを仕上げるんだ。そしてこいつを再埋葬して封印する。ただの本にするんだ。それがうまくいかなかったら……

 今回紹介する本書『紙葉の』について、はたして「読み終えた」という表現を使っていいものなのかどうか、はっきり言ってしまえば自信がない。その最大の理由は、たとえばところどころで挿入される、本文を圧倒的に凌駕していく注釈行の存在をはじめとする、およそ本という体裁からは逸脱したその編集形式であり、ページをめくったときに飛び込んでくるそのインパクトは、読者の目を引くのに充分なものがあるのだが、[4]そうした部分の詳細を語る前に、まず本書が何について書かれたものであるのか、はっきりさせる必要がある。逆に、本書を構成している多重性についての認識がないと、とてもではないが本書のなかに広がっている迷宮を進むことはできない。

 この作品の中心にあるのは、「ネイヴィッドソン記録」と呼ばれるドキュメンタリー映像である。映画監督や小説、詩人や医者、哲学者など、多くの著名人たちのあいだで話題となり、さまざまな解釈や評論が出されたとされるこの映像記録は、ピューリッツア賞も受賞したことのあるフォトジャーナリストのウィル・ネイヴィッドソンが、その妻と子どもたちとの関係を築きなおすために購入した、古い屋敷のなかで起こった怪奇現象を撮ったものだ。ある部屋の内側の幅と外側の幅が食い違っている、というささいな異変から、少しずつのなかが変化をつづけ、最終的にはのなかの一角に物理法則を無視するような広大な空間が出現し、人間を呑み込んでしまう、というのがその事件のおおまかなあらましであるが、その映像にかんするあらゆる文献を参照しながら、その映像の内容や、その裏に隠された真理を文章にまとめようとした人物が、ザンパノという老人である。

「ネイヴィッドソン記録」という映像があり、それを文章として起こそうと試みた同名の原稿がある。およそ部屋のなかにあるあらゆる紙の白い部分に綴られた、その正気を疑わざるを得ない混乱ぶりをとどめるその原稿を、ザンパノの死後にその部屋に入ったジョン・トルーアンが発見し、独自の注釈や付属書をつけるなどして本の形にまとめた。それが自費出版で刊行された『紙葉の』の第一版であり、それをさらに編集し、簡易版やフルカラー版などのバージョンとして出版した本、それが、これから書評しようとしている本書なのだ。

 ここでひとつ強調しておかなければならないのは、本書があくまで「ネイヴィッドソン記録」に関する考察をまとめた本であって、「アッシュ・ツリー・レーンの」で起こり、ネイヴィッドソンをはじめ、その関係者に少なからぬ傷を負わせることになった怪奇現象そのものを取り扱っているわけではない、という点である。だが、「ネイヴィッドソン記録」がとらえているのは、まぎれもないあの怪奇現象である。つまり、もし「ネイヴィッドソン記録」の考察を本としてまとめることができれば、同時に「アッシュ・ツリー・レーンの」の怪奇も解明され、怪奇は怪奇でなくなることになる。そしてその怪奇現象は、ザンパノの未完成の手記をつうじて、ジョン・トルーアンにも少なからぬ影響を及ぼしていた。[5]だからこそ、ジョン・トルーアンはザンパノの手記をどうしても本にする必要があった。

 じっさい、本書に載せられているさまざまな著者の引用文や、さらにそれらを補完する膨大な注釈行、参考文献といった存在は、そこで起こったとされる怪奇現象に対して、なんとか私たちの世界における秩序づけを行なおうとしているかのようであり、見方によっては、人間の圧倒的な論理で怪奇現象を抑え込もうとしているようでもあるのだが、そうした苦心は、いったんそこに出現した奇怪な空間を探検する部分に差しかかったとたん、脆くも崩れ去ってしまう。天地が逆転したり斜めになったり、文字が中央の小さな空間にしか書かれていなかったり、あるいは注釈行がページの真ん中を貫いていたりといった書式の混乱は、それまでふつうに本を読むということをつづけてきた私たち読者をひどく困惑させるものであるが、それはそのまま、その奇怪な空間をまのあたりにした人間が陥った困惑であり、また恐怖でもあるのだ。

 だが、ここであらためて私たちが立ち返らなければならないのは、そのジョン・トルーアン自身、「ネイヴィッドソン記録」そのものがザンパノの創作であることを、本書の序文で看破しているという点である。であれば、彼が体験した出来事は何なのか、という疑問が当然のように出てくることになる。狂おしいまでに彼を『紙葉の』刊行へと駆り立てたものは、何なのか――しかも、本書を読み進めていくとわかるのだが、「ネイヴィッドソン記録」のなかで、ネイヴィッドソン自身が『紙葉の』を持ち歩き、それを燃やしているという映像が出てくるに到って、私たちはもはやどこまでが虚構で、どこまでが現実なのかといった境界をすっかり見失ってしまうことになる。[6]

 本書は、言ってみれば文章で作られた迷宮である。うかつに入り込めば、たちまち方向感覚を失い、永遠に迷宮を彷徨うことになりかねない。そうした雰囲気は、まさに「ネイヴィッドソン記録」で撮られた奇怪な空間そのものであり、まさに文章の力でそうした迷宮を現出させた本書は、まぎれもない奇書である。だが、迷宮というのは、入り込んだ人間を惑わすためだけでなく、迷宮の中に閉じこめられた「何か」が出てくるのを防ぐためのものでもある。[7]はたして、本書が封じ込めたものはいったい何なのか――それをはっきりさせるために準÷・操烙鮪l鮪癆詩摩・曹・蛟逐÷・準・鱒罪w!A本書e柏閲s"ょ"・・抹v素s"q"・Ad縲[8]

[1]有名な『ネクロノミコン』を持ち出すまでもなく、たとえば現代においてもそうした伝説は脈々と受け継がれている。トマス・ウォートンの『サラマンダー 無限の書』は「始まりも終わりもない無限に続く本の作成」をめぐる物語であるし、ローレンス・ノーフォークの『ジョン・ランプリエールの辞書』は、ある男の頭のなかに渦巻く数々の古典に関する知識を吐き出させるために、辞書を編纂するという物語である。
[2]しかしながら、そうした奇書に惹かれる者がけっして幸福になりえないというのは、古川日出男の『アラビアの夜の種族』に登場する「災厄の書」の編纂者の末路を考えるまでもなく、暗黙の了解である。では本書は、読み手にどんな不幸をもたらすというのだろう?
[3] 北森鴻の『共犯マジック』に出てくる「フォーチュンブック」は、人の不幸のみを予言する占い書であるが、それでもなお未来を見てみたいという人間の欲求は、抑えがたいものとして遺伝子に組み込まれているようだ。
[4]この作品のなかに書かれている文章をすべて追っていくことに、はたして意味などあるのだろうか。本を横にしたり、逆さまにしなければ読めない文章や、載っていない単語まで律儀に載せている索引、あるいはただいくつもの人名や名称が書かれているだけの注釈は、本書が迷宮であるための要素であって、およそ読み物としての機能は限りなく薄いように思えて仕方がない。
[5]注釈のなかには、あきらかにジョン・トルーアン自身の身辺雑記と思われるものが混じっているのだが、彼の感じとった恐怖が現実のものであったからこそ、その恐怖をも本の形に「封印」したかったのだという心理が垣間見えてくる。もっとも、それがうまくいったのかどうかは、はなはだ怪しいものだが。
[6]本書は空間をねじ曲げる作品であるが、どうやら時間の概念をもねじ曲げる力をもつようだ。
[7]ここで、ミノタウロスの伝説にかんする記述のみが、削除線を引かれているという現象に注目しなければなるまい。かの怪物は迷宮のなかに閉じ込められていたのだが、本書が文章によって編まれた迷宮だとするなら、その削除線は、迷宮としての文章の力を削いでしまうことになる。ということは、本書に閉じこめられていた「何か」は、読者がページを開いた瞬間には、すでに解き放たれていたということになるのか。
[8]以下、文字化けで判読できず。

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