【祥伝社】
『高麗秘帖』

荒山徹著 



 ある歴史をまぎれもない事実として正しく認識することは、けっして容易なことではない。なぜなら、同じひとつの戦争をあつかったとしても、戦争を起こした側と戦争に巻き込まれた側とでは当然のことながらその立場も、解釈もまったく異なるものであり、極端なことを言えば、どちらも自国の都合のいいように歴史を再構築していく傾向があるからである。そして大抵の場合、敗者の歴史は地上から姿を消す運命にある。結果、歴史は常に勝者の手によって都合よく記録され、後世に伝えられていく。それはいかにも自分勝手な人間らしい営みではあるが、現代を生きる私たちは、そのために常に偏った歴史の記録と相対しなければならないのだ。そして、ある一面だけを見て歴史を解釈することほど、危険なことはない。

 歴史小説とは、ある歴史上の出来事を題材にしたフィクションである。そこには書き手の想像力がおおいに発揮されるがゆえに、ときにはその時代の文化や生活観、歴史的背景や当時の人々の思想とかいったものをまったく無視した、荒唐無稽な物語が展開することもあり、たとえどれだけ信憑性が高いものであったとしても、学問としての歴史的価値は無きに等しい。だが、ひとつだけ歴史小説に娯楽以外の価値を認めるとすれば、それは書き手の視点が歴史上の人物をたんなる記号ではなく、自分たちと同じひとりの生きた人間として捉えようとする点であろう。そこには、勝者の歴史という束縛から解放された自由自在な想像力があり、その力の前にはどんな歴史上の偉人であろうと、私たちひとりひとりと同じ立場に立たされることになるのだ。

 副題に「朝鮮出兵異聞――李舜臣将軍を暗殺せよ」とあることからもわかるように、本書『高麗秘帖』は1597年、豊臣秀吉が晩年に起こした二度目の朝鮮半島への侵略戦争を題材にした作品であるが、ひとつ注意しなければならないのは、本書における中心人物が日本側の武将ではなく、朝鮮側の将軍、李舜臣であるという点である。

 将軍、と書かれてはあるものの、物語の冒頭において、李舜臣は将軍という地位を剥奪されている。5年前の日本軍の侵略のさいに、新型戦艦「亀船」を操る水軍の最高司令官として日本の水軍をことごとく打ち負かし、朝鮮半島の制海権を守りつづけた救国の英雄は、しかし王命にそむいた罪で投獄され、厳しい拷問を加えられた末に一兵卒に格下げになっていたのである。そんな舜臣のもとに、彼に代わって最高司令官に抜擢された元均率いる水軍が、日本水軍によって壊滅させられたという凶報が届く。もし日本軍に制海権を渡してしまったら、この朝鮮国は奴らの思うがままに蹂躙されてしまう――この国の未曾有の危機を察した李舜臣は、水軍の被害状況をたしかめるべく立ち上がった。
 いっぽう、日本軍のなかにもこの大勝利を憂慮する者たちがいた。朝鮮出兵そのものに疑問を感じ、明との講和交渉を根強くづけてきた小西行長は、この勝利によって日本軍がさらに泥沼の戦いを続けなければならなくなるという事態を重く考え、李舜臣が水軍に復帰し、日本軍の進行を食い止めてくれるよう、陰ながら尽力をつくす決意をかためていた。だが、かつて李舜臣率いる水軍に大敗を喫し、その雪辱に燃える将軍、藤堂高虎は、李舜臣が将軍に復帰する前に暗殺せんと、特殊な力をもつ戦士たちをすでに放っていた……。

 はたして、李舜臣は将軍に復帰し、無事水軍を立て直すことができるのか、もしできたとして、数の上では圧倒的な戦力を誇る日本水軍を前に、どのような戦いを見せるのか――日本軍からの暗殺部隊と、李舜臣の活躍を好ましく思わない朝廷の文臣たちによる妨害工作という、二重の敵を前に、ほんのわずかな手勢とともに、それでも絶望的なほどに不利な戦いに身を投じていくというストーリーは、物語としてはいかにも熱い展開であり、また当時の戦艦や銃器の知識、歴史的背景、地形や国の文化や制度といったリアリティの面においても、読者を物語の世界に引き込むのに充分なボリュームを持っているが、それにもまして本書の大きな特長となっているのは、李舜臣をはじめとする主要な登場人物が、それぞれ何のために戦うのか、ということに対して明確な意志や思惑をもち、そうした意志や思惑がさまざまな形で交錯することによって、たんなる日朝の戦記ものという枠を超えた奥深い人間ドラマが展開されているという点に尽きるだろう。

「……おれたちが戦うのは、彼らのためだ。倭奴の侵掠に苦しむすべての者たちのためだ。文臣たちのためなどではない。ましてや、王のためでも――(中略)――それだけのことだよ。それだけのことなのだ」

 同じ朝鮮人でありながら、いっぽうで倭奴によって夫と子どもを殺され、その復讐のためにひたらす武芸を身につけ、李舜臣とともに戦う決意をする柚姫のような女性がいて、いっぽうで倭奴の侵攻に対して、守るべき民たちを捨てて真っ先に逃げ出した朝鮮国の武官や官僚たちに深い憎しみを抱き、あえて日本軍の手先となった霞のような女性がいる。同じ日本人でありながら、いっぽうで先の惨敗の張本人である李舜臣をなんとしても始末しようとする藤堂高虎のような者がいて、いっぽうでその李舜臣を守ろうとする小西行長のような将軍がいる。朝鮮出兵そのものを悪とみなし、あくまで自分の正義を貫くために日本人であることを捨てた将軍がいるいっぽうで、そうした裏切り者を征伐することに心血をそそぐ将軍がいる。自身が持つ特殊な能力を、誰にも支配されないための道具として振るいつづける者がいるいっぽうで、その能力を弱い者たちを守るために振るう者がいる。そう、本書を読み進めていった読者がそこに見出すのは、日本人であるとか、朝鮮人であるとかいう区分以前の、まぎれもない人間の姿なのだ。

 朝鮮国を救う唯一の人物して李舜臣がいて、その李舜臣を暗殺しようとする日本人がいて、その暗殺に加担する朝鮮人がいて、その暗殺を阻止するために戦う日本人がいる――そうした複雑な構図を考えれば、著者の本書に対する視点が、けっしてどちらの国にも寄り添うものでないことは明らかだろう。朝鮮を侵略している日本人をすべて悪として描いているわけでもなく、だからといって侵略される朝鮮人をすべて善ととらえているわけでもない。あたり前のことであるが、朝鮮側にも自分の私利私欲のことしか考えず、宮廷で派閥抗争をつづける者がいて、日本側にも朝鮮の戦災孤児たちを引き取って保護している者がいることを、まるで両者の善悪のバランスをとるかのようにきちんと描こうとしている。著者がこの朝鮮出兵を題材にして表現しようとしていたテーマ、それはけっきょくのところ、憎しみや保身といった負の感情、自身の欲望を優先させた行動からは、けっして良いものは生まれない、という祈りにも似た思いではないだろうか。

 私たちは、ひとつの現実として人間が利害関係でたやすく揺れ動くことを知っているし、たとえ義を掲げて戦ったとしても、そのことが勝利に結びつくわけでもないことを知っている。世の中とはそういうものだとわかってはいるが、それでもときどき、そうした現実がどうしようもなく嫌になってくるときがあるものだ。そういう意味で、朝鮮出兵というひとつの戦争を、敵味方という枠を超えた壮大な人間ドラマとして描くことに成功した本書の意義は、きわめて大きなものであると言っていいだろう。(2003.12.22)

ホームへ