【講談社文芸文庫】
『抱擁家族』

小島信夫著 
第1回谷崎潤一郎賞受賞作 



 かつて「一家の大黒柱」として、家庭の中心に君臨してきた父親像が、現実の家族の中から失われたと言われるようになって久しい。都会への人口の流出や、ニュータウンなどの宅地開発によって核家族化が進み、昭和初期にはあたりまえの形だった三世代同居型の家族が崩れていったのが原因のひとつだと一時期は言われていたが、核家族という形態のなかにも父親がたしかに存在する以上、父親の役目が消えてしまったのではなく、家族そのものの役割の変化にともなって、父親が負うべき役割の質も変化せざるを得なくなった、と言ったほうがいいかもしれない。

 だが、そもそも家族の中における、父親とは何なのだろうか? 私自身、妻帯者でも、ましてや父親でもない以上、現代の家族の形について語るのは、あるいはお門違いなのかもしれないが、だが、世界が新しい世紀を迎えた今、いかに多くのメディアが父親の不在、家族の崩壊、少年少女の犯罪増加や性に対する意識といったモラルハザードについて語ってきたかを考えたとき、私たちにとってもっとも身近なものであるはずの家族、そしてその構成単位である父親は、いったいどこへ向かおうとしているのか、と思わずにはいられなくなる。

 本書『抱擁家族』に書かれているのは、ひとつの家族が崩壊していく様子だと言ってもいいだろう。それも、ビルの爆破のように、ある一点において劇的に崩壊するのではなく、まるで熟れすぎた果実が徐々に腐っていくように、ゆっくりと、しかし確実に狂い、ズレていく家族の姿をとらえた作品なのだ。本書に登場する三輪家の父親である俊介は、少しずつ深まっていく家庭内の違和感をなんとかぬぐいさろうと必死になって「父親」を演じようと努めるが、やることなすことがことごとく裏目に出てしまい、家族の絆の回復どころか、かえって妻や子どもたちとの温度差を広げてしまうことになる。

 ある悪い状況を回復しようと動けば動くほど、ますます状況が悪くなり、それゆえにさらに必死になってダメ押しせずにはいられなくなるという、このどうしようもない悪循環は、見方によってはひとつの喜劇でさえある。じっさい、俊介の存在は道化そのものであり、その姿は滑稽でさえあるのだが、それ以上に本書に感じられるのは、奇妙な違和感――家族を構成する父親、母親、息子や娘はたしかに存在するのに、その核たる家族そのものが、まるで空洞であるかのように曖昧でどこかギクシャクしていることへの違和感である。そして、その違和感の中心にあるのは、「一家の大黒柱」でありながら、けっきょく何者にもなりえなかった俊介という人物の虚構性なのだ。

 ところで、本書の大きなテーマとして、「戦後における日本とアメリカとの関係」というものがあることは、あまりにも明確だと言わなければならない。そもそも三輪家の崩壊劇の最初の発端が、若いアメリカ軍人であるジョージと、俊介の妻である時子との不倫である、ということからして象徴的だろう。
 第二次世界大戦での敗戦と、それにつづくこれまでの日本的価値観の否定、戦勝国の「正義」たる、個人における自由と平等をかかげる西欧的合理主義の受け入れは、天皇を神の座から人間へとひきずりおろし、何の力もない象徴として弱体化させた。それが日本にとって幸いだったのか災いだったのかはともかくとして、一説によると、父を頂点とした家族という形は、天皇を頂点とした日本国民という国家の形の縮小版であり、天皇−父−家族という結びつきによる国民支配の1単位として機能していたという。そしてアメリカという外からの価値観を無批判に受け入れていった結果として、日本という国の拠り所がかぎりなく希薄になり、その代わりにただ与えられた自由と平等をふりまわすだけの極端な個人主義が横行する今の日本の姿があるとするなら、アメリカの価値観そのものを象徴するジョージによって、天皇の縮小版であるところの日本的「父親」の形をかぎりなく希薄なものにされてしまった俊介が、戦後の日本の象徴以外の何者でもない、と連想するのは、そう難しいことではないはずだ。

 じっさい、俊介という人物は、自分の家族を立てなおすのに個人のアイデンティティ――自分がこれまで経験してきたことから得た、まぎれもない自分が感じ、思ったことの積み重ね――ではなく、ひたすら「父親」という権威にすがり、それをふりまわすことが父親の役目なのだと思いこんでいるところがある。しかし、すでに「一家の大黒柱」としての父親像には何の力もない。西欧的自由と平等という新しい価値観を受け入れてしまった日本が、どうしてもそれを自分のものとして吸収できず、結果としてその悪いところだけが表面化してしまったように、俊介もまた新しい父親像を吸収できずにいる。だからこそ、それまでの価値観と新しい価値観との境界に挟まれて身動きもとれず、かといって自分なりの新しい家族の形を築くほどの自我もなく、家族そのものが崩壊していくのをどうすることもできないでいる。そして、話が進むにつれて、家族の枠が希薄になるのと呼応するように、俊介自身もまた存在自体が希薄になっていく。それはまるで、会社での地位のみにしか自分の居場所を見つけられずに、会社がなくなった瞬間、もはや何者でもなくなってしまっている自分に気づくサラリーマンのようでもある。

 この、あまりにも明確な象徴性は、ある意味では童話のように寓意性に富んだものでもある。子供たちは童話を読むことによって、そこから人間としての正しい考えや判断力を学びとっていくものであるが、本書というひとつの寓話がまぎれもない、私たち日本人が置かれている世界そのものであることを目の前に提示するものであるとするなら、私たちはその深刻さゆえに、外国人を前にして意味もなく笑顔をつくるように、笑うしかなくなってしまうのではないだろうか。

 山田詠美の『ベッドタイム・アイズ』では、黒人を恋人に持ち、征服していく女性の姿が書かれていた。その一方で村上龍の『限りなく透明に近いブルー』では、黒人に尻の穴まで犯されてしまう男性の姿がある。本書でも、常に時子や家政婦のみちよといった女性たちのほうが、よりしたたかに、個性的に描かれているのも、戦後日本のこうした流れを象徴しているように思える。そして日本の男性は、あるいは社会に背を向けて引きこもるか、あるいはキレて社会を攻撃するか――ともあれ、権威を失った男性がたしかな個性を見出すことができるのは、あるいはそうした異常な精神のなかだけなのかもしれない。それを考えると、本書の示す暗黒に暗澹たる思いを抱かずにはいられなくなるのだ。(2001.10.18)

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