【小学館】
『母恋旅烏』

荻原浩著 



 現在、結婚はもちろんのこと、特定の恋人にも恵まれていない、きわめてフリーな身である私が、もしかしたら将来もつことになるかもしれない自分の家族について考える、というのは、なんとも妙な感じのするものであるが、少なくとも自分が愛する妻や子どもたちのためには、最高の夫であり父親でありたいと思うし、そのためにはどんな努力も惜しまないだろう、と想像することくらいはできるものだ。だが、理想はあくまで理想であって、現実の結婚生活、さらに子どもたちを抱えての生活、というものに目を向けたときに、自分の思い描いていた理想像とはおよそかけ離れた、なさけなくカッコ悪い夫や父親になりはてていることに気づいて、愕然としている自分の姿を、いともたやすく思い浮かべることができるのも、またたしかなことである。

「男のロマン」という言葉はよく聞くが、「女のロマン」というのは、あまり聞いたことがない。これが意味するのは、女よりも男のほうが夢見がちな傾向がある、ということではないだろうか。理想と現実のあいだに横たわる、深くて大きなギャップ――だが、およそ神のごとく万能でない人間が、終始理想的な夫や父親でありつづけることなど不可能だ。かりに、そんな理想的な人間が現実にいるとすれば、それはそうした役割を、ある特定の相手の前でだけ完璧に演じている、ということでしかないのだ。そう、女を愛することを知った男が、その女性に気に入られようと必死になって自分の理想像をつくろおうとするのと同じように。

 本書『母恋旅烏』は、ある家族の崩壊を描いた物語である――そう、たしかに「崩壊」と言って間違いないだろう。だが、そこには不思議なことに、悲壮感といったものはほとんど感じられない。かつては大いに人気を博した、大阪の大衆演劇の花形役者であった花菱清太郎こと菱沼清を中心とする、6人の個性豊かな家族たちが繰り広げるコメディータッチな「家族崩壊劇」は、読めばすぐに気がつくことだが、じつはその冒頭からとっくの昔に崩壊している家族を描いたものである。ただ、本書の大部分において語り手となる寛二だけが、そのことに気づいていない。本書にははっきりと書かれていないが、普通の人よりも少しばかり頭の弱い17歳の寛二にとって、彼の家族が仕事で演じる「レンタル家族」での、とても仲の良い家族の姿と、それ以外のときの、いつも誰かと誰かがケンカをしている家族の姿との区別がつかないのだ。

 ぼくは思った。うちの家族がいつも営業中だったらいいのにって。

 本書の構成は大きく分けて、前半の「レンタル家族」の部分と、後半の大衆演劇の部分とに分けられるが、当然のことながら、すでに崩壊している家族のなかにいること――もっと明確にすれば、いつも家族全員を巻きこんで「レンタル家族」の仕事をはじめたり、何の相談もなく勝手にわけのわからない会社を立ち上げては、1年もしないうちに潰してしまう父親の身勝手さ――にいいかげん愛想がつきた家族は、ひとり、またひとりと自分の道を選び、父親から離れていく。物語の後半、「レンタル家族」の事業に失敗して借金を抱えこんでしまった清太郎が、かつての義理で大衆演劇の一座に加わる頃になると、家族はもう父親と母親、そして寛二の3人だけになってしまっている。そしてこの「家族崩壊劇」は、文字どおり全員がバラバラになるまでは止まらない。逆に言えば、家族がみんな真の意味でひとりの人間として独立できるようになって、はじめて終演となるものなのだ。

 私たちが「レンタル家族」という言葉のなかに思い浮かべるのは、偽りの家族、形だけの家族というイメージであるが、清太郎にとっての「レンタル家族」とは、あるいはすでに崩壊していた家族をつなぎとめるための、最後の防波堤だったのではないか、とさえ思えてくる。そういう視点で本書を見てみると、この物語は、語り手である寛二が、ひょんなことから大衆演劇で役をもらってから「演技」することに目覚め、そのことによって「レンタル家族」で仲の良い家族を「演技」している家族と、そうでないときの素の家族との違いに、さらには自分の本当の気持ちにも気がつくようになる、という成長物語であると同時に、それまで頑なに「理想的な夫像・父親像」たることを自分にも家族にも強いてきた清太郎が、ついに虚構としての父親像を「演技」することを断念する「家族崩壊」、ある意味では「家族解放」の物語でもあると言えよう。

 こんなふうに堅苦しく書評すると、あるいは暗い話なのではないかと勘違いなさる方もいらっしゃるかもしれないが、冒頭でも述べたとおり、本書の基本はコメディーだ。世の中をうまく立ち回ることを知らない、大衆演劇時代のプライドだけは高い清太郎の、思うようにいかない「レンタル家族」の仕事に四苦八苦する姿や、たまたま仲の悪かった高校時代の知り合いの結婚式にサクラとして出席することになった姉の桃代が、積年の恨みとばかりにその披露宴をメチャメチャにしてしまう爽快さ、まるで漫才のようにヤクザ相手に天然ボケをかます寛二にオロオロしっぱなしの兄の太一の様子、そしてなにより、未熟な団長によって崩壊しかけた演劇一座を起死回生の逆転で盛り返してみせる清太郎の手腕など、笑いあり、涙あり、感動もありの、まさに大衆演劇のような作品として仕上がっている。純粋に話の筋だけを追っても、充分満足できる内容である。

 大衆演劇の技術のひとつに「客いじり」というものがある。大勢の客の目の前でおこなう演劇ならではのもので、そのときの観客の雰囲気によって、役者がその場のアドリブを入れることで、劇全体の流れにメリハリをつけるというものであるが、ここで大切なのは、大衆演劇においては、必ずしも脚本どおりに動き、喋ることが成功ではない、ということである。そしてそれは大衆演劇だけでなく、家族というひとつの集団においても、まったく同じことが言えるのだ。理想的な家族像など存在しない。そういう意味で、本書が示したこの家族もまた、まぎれもなくひとつの家族のありかたなのだということを、私たちは知るべきだろう。(2003.02.14)

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