【角川書店】
『一瞬の光』

白石一文著 

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 小説を読んでいたりドラマを観ていたりすると、しばしば「自分を愛せない者に、他人を愛することはできない」といった文句を目にしたり、耳にしたりすることがある。こうしたセリフがいつ頃、誰がもちいたのがはじまりなのか、そのあたりのことは定かではないのだが、ここでいう「自分を愛する」という意味は、べつにナルシストになれとか、他人のことは差し置いてまず自分のことを考えろ、とかいったことを勧めているのではなく、もともとは、まずどんなところでもいいから、自分のなかの良いところを見つけ、そのことに自信を持とう、いったようなことではなかったかと思う。

 そういう意味では、上述のセリフはたしかに間違ってはいない。だが、私はこうしたたぐいの言葉を目にし、耳にするたびに、妙な違和感を覚えずにはいられなかった。これまではその理由がどうしてもはっきりしなかったのだが、本書『一瞬の光』を読んだとき、ようやくその違和感の原因がはっきりした。「自分を愛せない者に、他人を愛することはできない」――だが、はたして人は、他人を愛するという目的のために自分を愛さなくてはならないのだろうか。そして、自分をどうしても愛せない者に、他人を愛する資格はない、というのだろうか。私がこうしたセリフにこれまで感じていたのは、本来無償であるはずの愛が、まるで資本主義経済のように、何かの交換条件として取引されていることに対する違和感だったのだ。

 よく大衆向けの新聞や雑誌などのスクープ記事で、著名人の男女がひそかに会っている写真とともに、「熱愛発覚!」といった文句が誌面をにぎわせることがあるが、本書における橋田浩介と中平香折との関係を、そうした単純な単語に置き換えることはできそうもない。むろん、第三者の視点からふたりの関係をとらえたとき、おそらく誰もがそこに、男女のあいだに当然起こるべき恋愛感情がめばえ、ふたりは愛しあっているのだと判断されてしまうものがあるのはたしかだが、本書を読みすすめていくうちに、読者はこのふたりのあいだにある非常に複雑で微妙な心の動きや、それぞれが抱えている深い事情といったものに気づくことになる。

 本書の中では一人称の語り手でもある橋田浩介は、小さい頃から頭脳明晰、スポーツ万能、容姿端麗で女に不自由したこともなく、今は日本最大の財閥の中枢を担う巨大企業で現社長の寵愛を受け、30代後半にして人事部課長という異例ともいうべき出世をはたした超エリートである。プライベートでも現社長の姪である美人の才女、藤山瑠衣とつきあっており、まさに誰もがうらやむような輝かしい人生を歩んでいる浩介だったが、まさにその才能と待遇ゆえに、他人と深くかかわったり、自分のすべてをさらけだすような付き合いとは無縁の、凍りついたような孤独と哀しさを抱えてこれまで生きてきた人物でもあった。

 人はけっしてひとりでは生きられないし、またどんな人間も多かれ少なかれ、目に見える形であれそうでないものであれ、必ず誰かに支えられて生きているし、また自身の言動が他の誰かの支えにもなっているものだ。それがこの人間社会で生きていく、ということであり、人は生きていくうちにそうした仕組みにおのずから気づくものだが、浩介の不幸は、浩介自身がはっきりとした形で誰かの助けを借りることなく、たったひとりでもこれまで何でもやり遂げるだけの才能と運をもってしまったこと、そして社会のそうした相互依存の仕組みを心から実感する機会がほとんどなく、ひとりで生きるのがあたり前だと思ってしまったことにある。たいていのことは、自分ひとりでこなすことができる――それゆえに浩介はいつも冷静で、また誰も傷つけないように気を配ることができた。だが、それは同時に、自分自身に対してあまりにも厳しい注文をつけて生きていくことを意味してもいるのだ。

 しかし、ひとつだけ言えるのは、敗北は人間を卑しくしてしまうということだ。負けるということは、人の品性までも歪めてしまう。――(中略)――自分を維持し、微かな誇りと夢を失わない、たったそのためだけでも、男は常に勝ち続けていかなくてはならない。

 物語のなかで、浩介は香折と出会い、なぜか彼女のことが気になって仕方がなくなってしまう。南青山のダイニングバーでバーテンダーとして働いていた中平香折――その前日、新卒採用の面接官として対峙したときとは異なり、どこか思いつめたような強さと脆さを宿した香折の姿をまのあたりにした浩介は、会社という組織の一員という肩書きを負わない場ではじめて香折の本質の、ほんの一面に触れたと言える。そしてどんなふうにも形容しようのない、不思議な縁に結ばれたようなふたりの係わり合いがはじまる。香折の奇妙な言動や態度に違和感をもちながらも、それでも少しずつ香折の生活にかかわるようになった浩介は、少しずつ香折が苛まれている壮絶な過去を知ることになる……。

 精神に異常をもつ兄や母からの、およそ想像をはるかに絶する虐待を受けつづけ、心も体も深く傷つけられ、大量の薬を飲まなければ普通の日常生活もままならないほど、自分を含めたあらゆるものに尋常でない恐怖を抱え込んでしまった香折と、多大な才能に恵まれ、未来に確実な名誉と富を約束された地位にある浩介――その生い立ちも境遇も、これ以上はない、というほどかけ離れているふたりたが、どちらも深い孤独にさいなまれている、という点で、じつは似たもの同士であるのだ。ただ、香折が自分は誰からも愛されていない、自分は生きる価値のない人間だと強く思い込んでいる、という意味で孤独であるのに対して、浩介の場合、過去に婚約を約束していた女性に突然去られるという経験も含め、自身に課している生き方があまりにも孤高すぎて、誰かにすべてをさらけだすような愛し方ができないでいる、という意味で孤独なのだ。

 前述したとおり、このふたりの関係について、ただ「恋愛」というレッテルを貼ることはできない。また香折が抱えているものにしても、たんなるADとして片付けられるようなものではないし、浩介の心情もただ「何をぜいたくな」と切り捨ててしまえるほど単純なものではない。そういう意味で、本書ほど要約や書評が難しい作品も珍しい。ここでどれだけ多くの言葉を費やしても、おそらく本書の10分の1も説明できないに違いない。まさに「とにかく読んでくれ」としか言いようがないのだが、もしひとつだけ指摘できるとすれば、本書に書かれたふたりの関係から、たとえば男女が愛しあうのにセックスという行為が必要であるとか、男女のお付き合いの目的には「結婚」というイベントが常にあるとかいった「交換の論理」に、いかに私たちがふだんから縛られて生きているか、ということを、あらためて認識させられる作品である、ということである。

「自分を愛せない者に、他人を愛することはできない」――それはおそらく事実だろう。だが、それだけが唯一無二の真実ではない。人が人を愛するということ、過去も未来も、人生の豊かさも、共に生きていくことの安らぎも、ましてや打算や人間臭い思惑といったものもまったく関係ない、まさにその一瞬一瞬をかけがえのないものとして生きていくような、そんな愛の形のひとつが、本書のなかにはたしかにある。(2004.02.01)

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