【東京創元社】
『空飛ぶ馬』

北村薫著 



「古き良き探偵小説」などという言葉があるのかどうかはともかくとして、不可解な殺人事件があり、名探偵が登場し、一見なにげない物証や情報から複雑なトリックを鮮やかに推理し、ズバリ犯人を言い当ててしまう、というパターンのミステリーを書く現代作家のひとりとして、島田荘司が挙げられる。名探偵御手洗潔のデビュー作でもある『占星術殺人事件』は、その斬新なトリックこそが最大の魅力であることは間違いのない事実であるが、「読者への挑戦状」という名のもとに、読者にも事件を推理して楽しんでもらおう、という姿勢も、そうしたミステリーの大きな特長のひとつだと言えよう。

 ところで、読者にも探偵役をつとめさせたい、と考えるのであれば、当然のことながら、事件を解く鍵はすべてその作品の中に提示しておかなければならない。そうでなければ、読者に対してフェアではないからだ。そういう意味では、最近のミステリーで多い叙述トリック系の作品――登場人物がふたつの名前を持っていたり、何者かの主観のもとに、事物を見間違えたりするようなトリックは、読者参加型のミステリーにあまりふさわしくないと言わなければならないだろう。

 私が本書『空飛ぶ馬』を読み終えて思ったのは、まさにその上述したような「古き良き探偵小説」のパターンを忠実に貫いた作品に感じられる、なつかしさとでも言うべき印象だった。といっても、そこには陰惨な殺人事件があるわけではない。たとえば、一度も見たことのないはずの男が割腹するという怖い夢、たとえば、喫茶店でカップに何杯も砂糖を入れる女の子たち、たとえば、鍵をかけ忘れた車から唯一盗まれた座席カバー ――そこにあるのは、たしかに奇妙な出来事ではあるかもしれないが、普通の人ならば、とりたてて深く考えることもなく、そのまま見逃してしまいそうな、ごくささいな謎ばかりのように見える。だがよく考えてみれば、「古き良き探偵小説」の名探偵たちも、そうした何気ない事実から、事件の謎を解く糸口を見出していったのではなかったか。

 そういう意味では、本書の中で探偵役となる噺家の春桜亭円紫もまた、まぎれもない探偵の資質をもった人間のひとりとして扱ってもいいだろう。ただし、彼が推理を展開することで見せてくれるのは、およそ現実では実現不可能な感の否めない、しかし誰もが予想だにしないであろう大掛かりなトリックではなく、人間の心という、私たちにとっては馴染みの深い、しかしことによるともっとも不可解で得体の知れないものなのである。

 いまさら言うまでもないことかもしれないが、私たちはそれぞれ自分の世界をもち、その中で生活している。そして他人と接する、というのは、それぞれが持つ世界が衝突することでもある。世界が衝突することで引き起こされる心の動き、感情の起伏は、必ずしも当人たちにとって愉快なものばかりではない。嫉妬心、底知れぬ悪意、自分勝手で他人のことを思いやろうとしない心――もちろん、それだけが人間のすべてだと言うつもりはないが、そうした歪んだ醜い心の動きは、人間が人間である以上、誰もが多少なりとも自覚せざるをえないものだと言えよう。

 本書の土台となっているのは、女子大生である「私」――何の変哲もない、ごくごく平凡で、人より少しだけ読書の好きな女の子の生活である。「こいくちしょうゆ」を「こんちくしょうゆ」と見間違えたりする、お茶目なところもある「私」という人物の個性を、日常生活の描写の中に溶け込ませることで、読者の身近なものとして巧みに演出させる物語の展開は、たとえば加納朋子の『ななつのこ』でも見られるものだ。そして、その日常世界の住人であるヒロインが、彼女にとっての非日常の住人である「探偵」、『ななつのこ』であれば小説家、そして本書では噺家――どちらも言葉という論理の産物を武器に、独自の世界を築き上げる職業に就いているという事実は、非常に興味深いものがある――と出会い、日常に隠された小さな謎を解明していく、という流れも共通しているのだが、本書の大きな特長は、円紫によって明らかにされる真実が、そのまま人間の本性を、その闇も光もすべてむきだしにしてしまう、という点を強調して描こうとしていることだろう。

 本書はタイトルを含む五つの短編で構成されているが、そのなかのひとつ「赤頭巾」で、円紫が童話の「赤ずきん」のストーリーに対して、「おおかみは赤ずきんと最初に森で出会ったとき、なぜそこで赤ずきんを食べてしまわなかったのか」という理屈を述べるシーンがある。

 しかし、一旦、気付いてしまったからには、もうそこに理屈をつけないと先には進めないのです。知で情を押さえることは出来るのに、その逆は出来ないのです。そこが知で動く人間の哀しさではありませんか。

 知らないことが罪である、というのがまぎれもない真実であるとして、それでもなお、知らなければよかったと思うことが、この世には数多くある。自分自身の、あるいは他人の認識を根底からくつがえしてしまうことさえありうる真実の重みを考えたとき、真実に対してあまりに鋭すぎる洞察力をもってしまった円紫――古き良き時代の人々の日常生活を、そして人情を語る噺家としての彼は、いったいどういう思いで落語を語り、そして真実を「私」に提示しつづけるのか。それは、本書を読んでぜひ確かめてもらいたいところであるが、ひとつだけ確かなのは、円紫は真実を知ることを恐れていない、ということであり、それは同時に、無知であるがゆえに、無自覚に人を傷つけてしまうことがあることをよく知っている、ということでもある。そして、そうした態度は、ときに人を傷つけ、ときに人を感動させる言葉を操る噺家だからこそふさわしいものであろう。

 けっして輝かしいだけではない真実を照らす「探偵」円紫との交流のなかで、女子大生である「私」がこれから先、どう成長していくのか、非常に楽しみである。(2001.09.14)

ホームへ