【光文社】
『闇の奥』

ジョゼフ・コンラッド著/黒原敏行訳 

背景色設定:

 私たちは、自分がまぎれもない人間だと思っている。それは、あまりにあたり前すぎて、そうだとわざわざ意識することすら必要のない、自明のものとして私たちのなかにあるものだ。そしてここでいう「人間」というのは、社会生活を営むものの一員としての存在であることを意味する。すなわち、自分と同じ社会のなかで生きている多くの人たちが、自分と同じ「人間」――自分と同じように笑ったり泣いたりする感情をもち、自分と同じように他者とのつながりのなかで生きる人間であるという認識である。

 相手が何を考え、どんなふうに感じているかを、自分のことであるかのように思いやる想像力や、相手と意思の疎通をはかる言葉といったものが、私たちが他の動物とは異なる、人間独自のものだというとらえかたは、ある意味で間違いではない。だが、これらの要素は突き詰めれは、環境への適応のために生物としてのヒトが獲得した器官――獲物を捕らえるための爪や牙、身を守るための鱗や保護色といったものと同じものだという考えがある。想像力は未来をより正確に予測するため、言葉はより詳細な情報を確実に伝えるためのものであり、それはけっきょくのところ種としての生き残りのために発達したものだという考えである。人間は――私たちはけっして特別な存在ではないし、神などといった至高の何かに選ばれた存在でもない。私たちが自明のものとして受け入れている、自分が「人間」であるという認識は、じつのところ何の拠り所があるわけでもない、きわめて脆弱な土台のうえに建てられた約束事にすぎないのだ。そう、とくに本書『闇の奥』における、クルツのような状況に置かれた者にとっては。

 俺たちはもう周囲の状況を理解できなくなっていた。――(中略)――なぜなら、俺たちはあまりにも遠くまで来てしまい、普通の世界を憶い出せなくなっていたからだ。原始の夜を旅していたからだ。遠く過ぎ去り、痕跡も記憶もほとんど残っていない時代の夜を。

 船乗りであるチャーリー・マーロウの若き日の体験談という形で綴られていく本書において、中心となっているのは彼がかつて出会ったクルツという人物のことである。西欧における植民地経営が華やかなりし時代、交易会社の社員としてアフリカ大陸の奥地、コンゴ河をさかのぼった出張所に何年も身を置き、どこよりも多くの象牙を送ってくる男――未開の土地に惹かれ、河をさかのぼる蒸気船の船長としてアフリカまでやってきたマーロウは、その先々でそんなクルツの噂を耳にする。そしてその奥地の出張所が何か深刻な危機に直面しており、当のクルツも病気で倒れたという噂も。

 原初の自然が猛威をふるい、人間の生み出したちっぽけな文明の光すら容易に届かない暗黒の地――この書評において、私は「アフリカ」「コンゴ河」といった現在の固有名詞を使用して説明しているが、マーロウの主観で語られる本書のなかには、じつはそうした固有名詞はいっさい登場してこない。彼にとってそこは文明社会から遠く隔たった未開の土地であり、また名づけによる秩序づけを受けつけない魔境という意識が強くはたらいているのだ。そこは、ただたんに距離的に離れた場所というだけではない。マーロウにとっての日常世界からも遠く隔たっている異界、どんな奇怪なことが起こっても不思議ではない場所としての距離感が、その語りからにじみ出ている。

 固有名詞の徹底した排除は、場所だけでなく人物名にもおよんでおり、たいていが「機械工」「支配人」「一級社員」といった呼び名で統一されている。そんななか、ほぼ唯一といっていい固有名詞の持ち主として登場するのがクルツである。はたして彼は何者で、どのようにして莫大な象牙を入手してきているのか。そしてそんな彼の身に何が起こり、現在の奥地の出張所はどんな状態なのか――マーロウのクルツへの興味は、そのまま私たち読者の興味となり、蒸気船はそんな数々の謎を乗せて河をさかのぼっていく。まるで、人類がこれまで歩んできた文明の進歩を逆向きに辿っていくかのような密林探検のはてに、マーロウたちが何を見出すことになるのか、それはぜひとも本書を読んだおのおのがたしかめてほしいことであるが、ひとつだけ言えることがあるとすれば、それは私たちが「人間」であるという常識が指し示すような形での真相や謎解きといったものを、本書に求めることそのものが、本書の提示するテーマからはずれることになる、という点である。

 彼の場合、話の意味は、胡桃の実のように殻の中にあるのではなく、外にある。――(中略)――意味は話から滲み出して、その話を外側から包む。ちょうど月が幽霊のようにおぼろに霞む時、ぼうっとした暈がその周囲を包むように。

 たいていの船乗りの話がもつ単純さや予定調和といった要素を挙げたうえで、「私」と称する人物が、同じ船乗りであるマーロウの語りについて、上述のような感想を述べる箇所がある。そしてそれは、彼の語るクルツにまつわる顛末へとそのままつながっている。はっきりとしたことは――それこそ、ミステリーのようにすべての謎が解き明かされるような読後感は、本書にはない。私たちがマーロウの語りをとおして見ることができるのは、人間社会を離れ、自分が「人間」であるというあたり前の認識を知らず知らすのうちに見失ってしまったヒトの、理解不能な狂気であり、その狂気を増長させた魔境という環境である。

「人間」が「人間」でなくなる狂気――それは何も、上から下へと堕ちていくことだけを意味するわけではない。自分が「人間」以上の存在だと錯覚することによっても発生するし、むしろそちらの狂気のほうが納得のいくものがある。自分が他の誰かよりも上であること、より大きな権力を振るうことを許されているという感覚は、あまりにも容易に人を人の道から踏み外させる。クルツがとらわれ、マーロウがまのあたりにすることになった狂気は、同じように「魔境」へと踏み込んだ者なら誰にでも起こりうることなのだ。そしてそんなふうに考えたとき、本書冒頭における、マーロウのイギリス大陸に目を向けながら放った「昔はこのあたりも暗黒の土地だったんだ」という第一声も、特別な意味合いを帯びることになる。

 人類が連綿と築いていった科技術や文明が、それまで理解できなかったがゆえに迷信や妄執へと人々を駆り立てていった闇を打ち払う光であったことは疑いようがない。だが、そうやって照らし出された場所はあまりにも小さく、その光源ははなはだ弱々しいものであることを、私たちはどれだけ意識しているだろうか。夜の闇さえ払拭してしまいそうな都会に生きる者が、闇のないその状態をあたり前のように思ってしまうように、「人間」に溢れた世界で生きる私たちも、自分がその仲間であることを疑いもしない。だが本書は、そんな私たち読者にまさにタイトルのごとく「闇の奥」を垣間見せる作品である。そしてその闇は、ほかならぬ私たちひとりひとりのなかにも、たしかに存在するものなのだ。(2011.07.31)

ホームへ