【早川書房】
『拳銃猿』

ヴィクター・ギシュラー著/宮内もと子訳 



 時代は常に変化をつづけている。それにともなって、いろいろなものの価値観や考え方もまた変化していく。そしてこの世には、時代の変化を読み、うまくその流れにのって生きていく者と、それまでの価値観に縛られ、自身をうまく変えられないまま時代に取り残されていく者の二種類の人間が生まれることになる。経済の世界などでは、後者は間違いなく「負け組」ということになるのだろう。そして私たちは「負け組」とならないよう、積極的に自分を変えていかなければならないと説かれることになる。だが、すべての人間がそれまで信じていたものを簡単に捨て、時代の変化に対処していけるほど器用なわけではない。

 世渡り上手でなければ、この世では生きていけない。だが、どれだけ時代が変化してもけっして変わることのない信念を心のなかに持っていなければ、この世で生きていく資格がない――日本の映画において「任侠もの」と呼ばれるジャンルが、今もなお一部の人たちの圧倒的な人気を博しているのは、自分が命をあずけた組のために生き、組の命令を信じ、組のために死ぬことさえ厭わない彼らの「馬鹿」がつくほどの実直さ、潔さが、血なまぐさい暴力シーン以上に人の心を打つものをたしかに持っているからに他ならない。義理と人情、そして何より筋を通すことに重きを置く「男のなかの男」の世界――本書『拳銃猿』に登場するチャーリー・スウィフトは、世渡り上手になるよりも、自分が生きていくうえで大事な信念をあくまで貫き通すことを選んだ、という意味で、今時の世界には貴重な馬鹿であり、またそれゆえに「男のなかの男」として称えられるべき人物である。

 自分によくしてくれるやつには、いつでもよくしてやってきたんだ。そういう相手がいないとしたら――そういう人間になれないとしたら――友だちなんてものはできないし、生きてる限り、心休まることはいっときもなくて、一夜たりともぐっすり眠ることはできないはずだ。

 チャーリーは、スタンをボスとあおぐギャング集団の実行部隊「猿の檻」のリーダーで、とくに銃の扱いにかけては誰からも一目をおかれる凄腕の殺し屋だ。スタンからの命令は絶対であり、チャーリー自身もスタンに対して深い恩義を感じているところもあり、スタンの命令であればなんであれ、忠実に実行に移してきた。すべてはそれでうまくいっていたのだ。そう、これまでは。

 マイアミでじわじわと勢力をのばしつつある大物ギャング、ベガー・ジョンスンが、じきじきにスタンのもとに赴いてきた。スタンの縄張りに逃げ込んできた自身の部下に制裁を加え、部下が盗んだ裏帳簿を取り戻してほしい、という依頼――スタンの命を受けたチャーリーは、その部下のいるストリップ・バーを襲撃し、裏帳簿の奪還に成功するが、彼が撃ち殺した奴らのなかに、警官が混じっていたことに気づく。事情が飲みこめないままに、警察とFBIから追われる身となるチャーリー、しかも、自分が属していた組織は知らないうちに壊滅的なダメージを受け、仲間は次々と殺され、スタン自身も行方がわからなくなってしまっていた……。

 こうしてチャーリーはただひとつ、すべての事件の鍵をにぎるベガーの裏帳簿を抱え、途方に暮れることになる。これまで自分の頭脳として、自分が何をすべきなのかを指示してくれたスタンは、今や行方知れずとなっている。状況を考えれば、すでにこの世の人ではなくなっている可能性すらある。彼は必然的に自分の頭で考え、自分の判断で行動することを余儀なくされるわけであるが、自分がただのガン・モンキー、つまり銃の腕前はたしかだが、それ以外に何の取り柄もない猿でしかないことを自覚しているがゆえに、チャーリーは自分にどれほどのことができるのか、そしてこれからどうすべきなのかを悩むことになる。そして、こんなふうに書くとわかってくると思うが、本書は多分にハードボイルド的な要素を盛りこみながらも、じっさいにはひとりの愚直な――しかし、それゆえに心のどこかに純粋な部分を残している殺し屋の成長と自立を描いた青春ドラマでもあると言えるのだ。

 思うに、おれがほんとうに望んでいるのは、スタンを見つけて、なにもかもうまくいくと言ってもらうことなのだろう。――(中略)――スタンにどうすべきか教えてもらわないと、どうも落ち着かない。そうだとは認めにくいが、ほんとうのことだからしかたない。

 青春ドラマ、などという言葉を使ったが、あくまでギャング集団のひとりであり、またプロの殺し屋、とくに、ガムテープをもちいて何かの代用品をつくったりすることもできる、経験豊かな殺し屋でもあるチャーリーの行動は、とてもではないが青臭い少年がとるべき行動とは程遠い。裏切り者を地の果てまで追いかけて、しかるべき制裁をくわえる、派手な銃撃戦を繰り広げ、死体の山を築いていく、銃で人を脅しつけ、無理やり情報を引き出す――それまで、銃と暴力だけを頼りに生きてきたチャーリーは、けっきょくのところ銃と暴力による力押しをつづけるより他に道は残されていないのだ。少なくとも、突如としておこった王国の崩壊の真相をつかみ、自分なりに現実というものを理解し、それなりの落とし前をつけるまで、彼はあくまでスタンの手足、ガン・モンキーとして行動する。

 そこには、保身も裏切りもない。悩みすら存在しない。自分に牙を向く者には容赦なく鉛の弾をぶち込み、自身もまた傷を負い、ボロボロになってもなお前へ突き進んでいくチャーリーの姿には、時代の波に取り残された「負け組」というレッテルを貼るにはあまりにも心揺さぶられる熱い何かが、たしかに感じられる。

 強さと優しさは、ハードボイルドを構成するのになくてはならない二大要素であるが、冷徹な殺し屋としての一面だけでなく、自身がどんなに厳しい状況に追いこまれても、母親や弟のことを気にかける誠実さや、ひょんなことから惚れ込んでしまった剥製師のマーシーへの強い想い、あるいはボスであるスタンへの変わらぬ忠誠心といった一面からも、チャーリーの優しさは垣間見ることはできる。思うに、チャーリーはおそらく、ずっと以前から確固たる信念というものを持った人間だったのではないだろうか。それも、他人からの脅しや、時代の流れといった移ろいやすいものの影響にけっして屈することのない、強靭な意思を有している、という意味で、彼はたしかに人間だったのだ。でなければ、ともすると自身の命さえ危ないという状況において、なおそれまでの信念を貫き通すことのできるその精神力を、いったいどう説明できるというのだろう。

 世の中はクソのようなものだ。正直者は馬鹿をみるし、悪い奴らはのさばりつづけるし、法の番人である警察は、現実に何らかの被害が出なければ動くことができないし、失われたものは二度と戻ってこない。信じるべきものも、未来の展望もまったく見えないこの世で、それでも心まで腐ることなく生きていくのは、けっして容易なことではあるまい。もし、あなたが本書を読むことで心打たれるものも感じたとするなら、それはおそらく「馬鹿」と呼ばれる者だけがもつことのできる、たしかな人間性に触れることができた、ということである。(2003.06.22)

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