【岩波書店】
『ガリヴァー旅行記』

スウィフト著/平井正穂訳 



 ガリヴァー旅行記と言えば、まず思い出すのは絵本や童話でおなじみの、小人の国を舞台としたお話であるが、主人公が寝ているあいだに小人たちに捕らえられてしまったり、敵国の軍艦を一網打尽にしたりするシーンは覚えていても、そのあとガリヴァーがどうなったのか、というストーリー的な部分はよく覚えていなかったりする。それだけ、小人の国リリパットというイメージ――逆に言えば、ただの人間がその国では「巨人」という非凡な存在と化してしまうイメージが強烈だったということであり、さらに言うなら、現実世界では平凡な人間が、別世界で特別な存在として扱われるというシチュエーションは、まさにファンタジーの王道だということでもあるのだが、岩波書店から刊行されている本書『ガリヴァー旅行記』を読了して思ったのは、その内容が「ファンタジーの王道」などという表現で語ることができるほど生易しいものではない、ということである。

 まず本書は全部で四部構成であり、小人の国の話はそのうちのひとつでしかない。船医として諸国を渡り歩き、それなりに身を立てたガリヴァーは、いったんは船乗り稼業から離れ、妻をめとってごく普通の家庭を築いていたものの、社会情勢や生来の好奇心の強さ、あるいは友人の船乗りの頼みといったいろいろな理由でふたたび船に乗り込み、そのたびに船が遭難したり、海賊に襲われて知らない土地に置きざりにされたりといった目に遭うのだが、そんなふうにしてたどり着いた、現実にはありえそうもない不思議な国々のことを来航記と称して書き記したもの、という想定で本書は書かれている。小人の国リリパットの話はその第一番目の来航記であり、以降巨人の国ブロブディンナグの話、空飛ぶ国ラピュータをはじめとするいくつかの国々の話、そして最後はきわめて高い理性をもつ馬たちの国フウイヌムの話でしめくくられている。そして本書を評するにあたって、最後の「フウイヌム国来航記」については、主人公の心に決定的な影響をおよぼした、という点できわめて重要な位置にある物語であり、この話があるのとないのとでは『ガリヴァー旅行記』の評価は大きく変わってくることになる。それこそ、子どものときに読んだ『ガリヴァー旅行記』とは何だったのか、と思わずにはいられないほどに。

 しかし、もし理性の所有者だと称している者がこれほどの残虐行為を犯しうるとすれば、その理性の力は完全に腐敗堕落しきっていて、単なる獣性よりもさらに恐るべきものとなっているのではないか、と疑わざるをえない。

(「第四篇 フウイヌム国来航記」より)

 このフウイヌム国には、理性ある馬のほかに、彼らが「ヤフー」と称する醜悪な生き物がいる。ガリヴァーも最初にヤフーと遭遇したさいに「ただもうわけもなくむかむかするような嫌悪感」を抱かずにはいられなかったのだが、フウイヌムの住人たちとの交流をつうじて、荷物運びなどの労働力として彼らが使役しているこの生き物が、自分と同じ人間であることを認めざるを得なくなっていく。このフウイヌム国の物語は、言ってみれば現実世界における人間と馬との関係が逆転した世界が描かれているわけだが、人間という存在をまったく異なった角度からとらえることで、それまで見えなかったものを明らかにするという手法は、本書全編をつうじて見受けられるものだ。

 たとえば小人の国リリパットや巨人の国ブロブディンナグは、同じ人間が極端に小さいか、あるいは極端に大きいというただそれだけの違いでしかないのだが、「ただそれだけの違い」がどれほどの違和感を生むかという風刺になっている。それはときに、王宮の火事を小便で消し止めるというある種のユーモアを秘めたものであるのだが、このふたつの物語を対にして考えたとき、それはたんなるユーモアではすまされない問題として読者に突きつけられる。たとえばリリパット国の住人は、卵の殻をどのように割るかで人々が対立し、長く戦争状態にあるという逸話をはじめ、ガリヴァー(そして彼の視点を重ねる読者)からすればじつにくだらないと思える事柄でお互いにいがみ合ったり、対立しあったりしているのだが、ブロブディンナグ国においては、それがそのまま自分自身にはね返ってくることになるのだ。

 しかし、お前の話や、わたしが無理矢理お前から引っぱり出した答えから判断すると、お前の国の大多数の国民は、自然のお目こぼしでこの地球上の表面を這いずりまわることを許されている嫌らしい害虫の中でも、最も悪辣な種類だと、断定せざるをえないと思うのだ。

(「第二編 ブロブディンナグ国来航記」より)

 ブロブディンナグ国の住人にすれば、私たちこそがちっぽけなリリパットであるという、このうえない皮肉――よくよく考えてみれば、私たちもまたじつにくだらない事柄について、さも重大事であるかのようにとらえているし、戦争のそもそもの原因にしても、無関係な者たちからすれば、それで殺し合いに発展するのかと首を傾げたくなるようなものばかりだったりする。本書が書かれた時代が、まさに植民地支配真っ盛りのイギリスということもあり、他の国を侵略して「大英帝国」を築いていったという事実はあるものの、それを差し引いても、人間社会のなかに渦巻く策略や陰謀、かぎりない欲望、他人を貶めて名声を得るという人間の悪癖は、現代においてもまったく変わらないものである。そして本書の来航記が進んでいくにつれて、私たち人間がもつ悪辣な部分への風刺はしだいに鋭さを増し、まさにどうしようもない生き物へと貶められていく。そうしてたどり着いたのが、フウイヌム国のヤフーであるとするなら、著者の人類に対する絶望感はどれほどのものかと思わずにはいられない。

 数学と音楽については抜きんでて優れてはいるものの、それ以外の事柄についてはまったく興味がなく、いくら他方面で優れた才能を発揮してもまったく評価の対象としないラピュータ人、人糞をもとの食べ物に戻したり、言語を使わないコミュニケーションの方法を模索するなど、およそできるはずもない研究ばかりしているラガートの研究所、死者を呼び出す族長の話や、どれだけ年老いても死ぬことのない不死人の話など、どれもファンタジックな要素に溢れていながら、そのことごとくが人類に対する皮肉を通り越して、呪詛にまで到っている本書において、はたしてガリヴァーはどのような境地にいたることになるのかは、ぜひとも本書を最後まで読んでたしかめてもらいたいところであるが、それは下手をすると、自身の人間としてのアイデンティティの崩壊をうながすものであるかもしれない。それだけのインパクトを、本書はたしかにもっている。(2010.09.26)


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