【新潮社】
『人形(ギニョル)』

佐藤ラギ著 
第3回ホラーサスペンス大賞受賞作 

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「今となってはいい思い出です」という言葉がある。
 人というのは、過去にどんな非道い目に遭わされ、つらく苦しい体験をしてきても、いったんそこから抜け出して、平凡な日常にその身を置いて生活していくうちに、いつしかそれを「思い出」という無害なものへと変えていくことができる生き物である。感情はけっして長続きはしない。体の傷はいつかは癒える。たとえ、永遠に無くしてしまったものがあったとしても、それでもなお人はその「無くしてしまった状態」に慣れていく。そうして時が流れていくにつれて、最後に「思い出」だけが残る。そのとき、過去にたしかにこの身で体験したはずの出来事なのに、あれは本当に現実のこととして起こったことなのだろうか、とふと疑問に思ってしまったりすることがある。とくに、その体験が現実離れした、ありえないほど非日常的な事柄であればあるほど、そうした疑問はいっそう強いものとなっていく。

 私たちが生きて生活している現実の世界と、あくまで想像の産物でしかない虚構の世界――人はときに虚構の世界へ逃げ込んだり、現実に起きた出来事をあえて虚構のものとして受け止めることで、自分が受けた精神的ダメージを回避し、なんとか現実の世界で生きていこうとする。そういう意味では、現実だけを見つめて生きていけるほどタフでない人たちにとって、虚構の世界は一種の救いでさえあるのだが、こうした虚構と現実との境目が、もしはっきりしてこなくなったとしたら、それはそれで大きな問題であるのはたしかだろう。

 本書『人形(ギニョル)』は、ある男娼を中心に繰り広げられる、淫靡で背徳的な香りのする見世物劇場である。表情が極端に乏しく、文字どおり人形であるかのような少年「ギニョル」――どれほど残虐な暴力をその身に受けても、まったくの無反応をつらぬく、なにもかもが謎につつまれたこの薄汚れた男娼の存在を、ふとしたきっかけで聞き知ったSM小説家の猪俣泰造が、彼を自分の仕事場に連れ込んで監禁するという、なんとも耽美な内容の本書は、人によってはある種の興奮さえ引き起こすものであることは間違いないが、そうした生理的な感情の部分ではなく、虚構と現実の狭間という視点で本書をとらえたとき、まるでその耽美さを隠れ蓑としているかのような、非常に巧妙なひとつの仕掛けが見えてくる。

「変態」は現実世界には棲息しきれない。定住の場を持ち得ないし、満足することを知らないし、遅かれ早かれ行為は法に抵触し、裁かれる。結局、「変態」は空想の世界に住むしかないのだ。紙の上に、あるいは電話回線の中に。「変態」にとって、現実と虚構との間に優劣はない。

 猪俣泰造というペンネームで本書に登場する一人称の「私」は、いわば匿名のゴーストライターであり、快楽殺人者があわれな被害者を拷問殺戮したり、身の毛もよだつような凶行蛮行を繰り広げたりするような、きわめて異常でグロテスクな物語を書いている。はじめはあくまで趣味としてはじめた創作活動だったが、それが高じて収入取得の手段となってからは勤めていた会社をやめ、妻と子どもにも去られてしまう。そういう意味では、彼はすでに普通の一般市民とは言えない立場にいるのかもしれないが、少なくとも彼は、自分が創作する虚構世界と現実世界との区別がつかなくなるほど「変態」ではなかった。

 しかし、ギニョルとの出会いが、彼を変えていく。

 現実と虚構との境目がきわめて曖昧なものになっていく、というテーマでまず思いつくのは岡島二人の『クラインの壺』であるが、この作品では現実に生きる人間が、ヴァーチャル・リアリティの装置によって現実とまったく区別のつかない仮想現実を味わう、という内容であるのに対して、本書の場合、あくまで「私」の想像のなかにしか存在しないような人物が、現実に生きて血を流すひとりの人間として出現することによって、その境目が危ういものと化してしまう、という方法をとっているのだ。

 虚構世界そのものがかぎりなく現実世界に近づいていくのではなく、現実世界のなかに、ふらりと虚構の産物としか思えない、得体の知れない生き物が出現する。しかもその生き物は、とてもなまめかしく、そして対峙する人間にこのうえなく被虐心を起こさせる、魔力めいた魅力を備えている。虚構の世界でさんざん想像した、残酷な行為をその身に受けて生きる男娼を目の前にして、はたして「私」の理性がどこまで保たれ、現実と虚構の境目を認識しつづけられるのか――本書の中で彼は、ギニョルを鎖でつなぎ、動物のように檻に閉じ込めて監禁するが、じっさいにとらえられたのは「私」であり、そしてポルノカメラマンである坂内克彦であったと言える。

 とくに「私」は、かつて家族で暮らしていた「本宅」のマンションを持っていながら、そこを長いあいだほったらかしにして、ほとんどの時間を薄汚れた「仕事場」で生活している。「本宅」がかつての「私」が属していた現実世界であるとするなら、日夜虚構の世界を生み出していく「仕事場」は、現実と虚構の狭間に位置する場である。そのきわめて不安定な閉鎖空間で、それでもけっして現実世界との接点を失うことなく生きてきた「私」は、しかしギニョルをその「仕事場」に監禁することで、ずるずると虚構の世界へと引きずりこまれていくのである。

 私は何をしている? 私は何をするつもりなんだ? ここは本当に現実の世界なのか? 私は誰の「人形」を盗んだのだ?

 本書の出来事は、間違いなくフィクションであり、SM小説家が書く虚構世界と同じところに属するものである。だが私が本当におそろしいと思うのは、ギニョルのような少年が、私たちの住むこの世界のどこにもに存在しない、などと断言することができない、というたしかな事実だ。このうえなく従順でありながら、このうえなく生意気で、そしてどちらにしても目にする者たちの被虐心を煽り、人間として堕落させていくギニョルの存在は、たしかにこの現実世界さえも「虚構」に塗り替えてしまいかねない、きわめて危険なものである。あなたの精神は、はたしてギニョルの魔の手から逃れることができるだろうか。(2004.05.01)

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