【早川書房】
『グアルディア』

仁木稔著 



 たとえば、この書評を書いている私は日本人であるが、ふだんの生活において自分が「日本人である」ということをことさら意識しなければならない機会というのは、じつのところほとんどないと言ってもいい。それだけ、日本人であるという要素は私にとって、疑問の余地もないものとして受け取られているということであるが、もちろん誰もがそうした要素について、私と同じような認識をもっているというわけではない。くだらないと言われてしまえばそれまでのことなのかもしれないが、自分が身を置くべき国籍がどこなのか、という問題は、たしかにその人のアイデンティティの一翼を担っているところがある。そして自分の外見がどんなふうに人に見られるのか、という点もけっして小さくはない。もし私の両親のどちらかが白人であったり、黒人であったりしたら、あるいは両親とも日本人であったとしても、生まれ育った国が日本でなかったとしたら、おそらく自分がどこの国の人間なのか、という問題は、もっと深刻なものとして迫ってくるのではないだろうか。

 ところで、人が人であるための条件について、考えたことはあるだろうか。これは、たとえば人間と他の動物たちとの違いといった、生物学的な差異のことではなく、言ってみれば「人間らしさ」とでもいうべき、ある種曖昧な観念のことを指しているのだが、私たち人間の大半は――種族や国の違いこそあれ――自分が人間であるということについて、疑問に思うことはまずありえない。それはあまりにあたり前のことすぎて、疑問に思うという思考そのものが働かない状態にある、という意味で、上述の私と「日本人」という組み合わせと同様の心理があるのだが、ことSFの世界においては、アンドロイドや人工知能、クローンや遺伝子操作といった未来の科学技術が、それこそ見た目は人間と大差ない存在を生み出し、登場人物のひとりとして物語に大きく関わってくることがある。あるいは、普通の人々にはない特異な能力を有している者、異能力者という設定でもかまわないのだが、外見は人間そのものであっても、そうした特異な要素によって自分がまぎれもない「人間」だという前提を、あたり前のものとして受け入れられない立場にある者たちが、人間社会のなかで生きていくうえで、どのようにして自己をたもち、精神の均衡を守っているのか――あるいはたもちえないのか、という点について深く掘り下げている作品は、私が知るかぎりけっして多くはない。そういう意味で、今回紹介する本書『グラルディア』は、その数少ないSFのひとつだと言っていい。

 本書の舞台となっている西暦2643年の中南米という世界設定について、一言で語るのは難しいのだが、ひとつ大きな象徴的要素として、人々の「移動」に対する概念を挙げることができる。かつて、遺伝子管理局によって管理されていた12基の知性機械によって繁栄の極みにあった人類の文明は、22世紀末に起こったとされる「大災厄」によって崩壊した。大地は多量の放射能によって汚染され、また空と海も「封じ込め」と呼ばれる排除プログラムによってどのような乗り物も使用できなくなり、人々は基本的にその土地に停滞することを余儀なくされている。つまり、本書の世界に生きる人々は、長い距離を移動するという概念をもたず、その代わり、汚染に対する適応を強めていくことで――人としての形態を変異させることでかろうじて生きのびることを選んだ。それゆえに、人々は汚染された土地をあえて移動してくる人々に対する差別意識が強い。それは、ともすれば自身の住む土地をも汚染しかねない災厄と見なされ、自分たちとは劣る存在として忌避され、あるいは労働力として狩られるべき「獲物」でもあったのだ。

 移動という概念を失った人々にとって、土地から土地へと移動するというのは、きわめて特別な行為と見なされるものであるのだが、本書の物語において中核をなす登場人物たちは、いずれも移動することを動機づけられているという共通点をもっている。そしてそれは同時に、汚染された土地を移動できるだけの、特異な力を有しているということを意味している。ひとつは「解放者」と呼ばれているアンヘルと、彼女を守護する役目を負う不老長生のメトセラである少年ホアキン。荒廃と混沌の時代にあって、自治都市エスペランサに唯一の科学技術をもたらす生体端末――12基の知性機械のひとつ、サンティアゴにアクセスする能力をもち、ラティニダードの統一を目指すレコンキスタ軍の総統でもあるアンヘルは、その圧倒的な軍事力によってグラナダを制圧、さらにはグナヤとの交戦に迫ろうとしていたが、その目的は、グヤナ高地の「星の野」に実在するとされるサンティアゴを手に入れるためのものであった。

 同じように「星の野」を目指すJDとカルラもまた、サンティアゴを求めて移動するだけの特異さをもつ父娘だが、彼らにはいろいろと謎が多い。ときに自らの姿かたちを変化されたり、ときに尋常ならざる能力をもって敵を殺戮するふたりは、その能力を隠しつつ「星の野」を目指す参詣団にまぎれて移動していたが、山賊による襲撃を撃退するためにその人外の力を振るったことをきっかけに、参詣団の守護者として崇め奉られる存在となってしまう。

 こうして物語は、知性機械「サンティアゴ」を目指して移動する二組の登場人物を中心にして展開していく。そして彼らは、いずれもただの人間というには、あまりにも人間離れした能力を行使することができる存在である。25年周期に単性生殖により世代交代していく生体端末に、かつては実験体でしかなかった不老長生のメトセラ、あるいは擬似ウィルスを利用した生体甲冑、人類に繁栄をもたらしていた知性機械の存在など、SF的な要素に溢れ、またそうした情報があたり前の世界を前提に物語が進んでいくという点においても、SFテイストに満ちた本書であるが、何よりこの物語が読者を魅了するとすれば、JDやアンヘルといった人ならざる力をもつ登場人物たちの、人ならざる力をもつがゆえに抱え込むことを宿命づけられた、倒錯的な愛情や憎悪といった感情の歪みであり、それゆえに全体として死と滅びに彩られたある種の悲劇性である。

 あまりに行き過ぎた科学技術の恩恵に、良かれ悪しかれ浴することになった人々の精神に生ずる影響については、たとえば栗本薫の『レダ』や長野まゆみの『新世界』などにも見られる、SFの大きなテーマのひとつであるが、本書に登場する異形の者たちがかかえる倒錯は、一度文明が崩壊し、人類の叡智が退行をつづけているがゆえに、より顕著な形となって、本書のあちこちに見ることができる。たとえば、世界で唯一の科学都市エスペランサの繁栄は、人類ではなくかつての実験体や生体端末といった、人ならざる存在によって支えられているという皮肉な設定は、その最たるものだ。人ならざる存在ゆえに、あるいは軽んじられ、あるいは畏怖される彼らの言動は、たしかに人間らしさという点で私たち読者にも違和感をもたらすものであるのだが、そのある種複雑に入り組んだ感情、愛憎半ばする心の倒錯具合が、ともすると彼らが自身を人間だとみなしたいがための最後の砦であるかのように、どこか脆さをともなうものとしても映る。

 本書におけるひとつの象徴的なもののひとつとして、「守る」という言葉がある。登場人物たちは、しばしばこの「守る」という言葉を、自分が守りたいと願う者に向けて放つのだが、いずれの登場人物の「守る」も、その裏にある複雑怪奇な事情や、その特殊な背景を抜きにして語ることはできない。なぜなら、誰かを「守る」という行為は、きわめて人間的な美徳のひとつであり、そのいっぽうで異形であるがゆえに、彼らの「守る」という行為もまた、どこかに捩れが生じてしまうからである。あるいは「守る」という心を利用し、あるいは「守る」ために自分の心を殺してしまう彼らの関係――だが、にもかかわらずそのすべてが嘘なのかといえば、けっしてそうではない。愛しながらもどこかで憎み、利用しながらもいっぽうで強く求めずにはいられない彼らの言動は、だからこそ不器用なまでの一途さを兼ね備えており、読み手の心をひどくかき乱さずにはいられない。それは、人が人であるという、あたり前すぎて意識することすらない概念と、あらためて向き合わなければならない者たちの、純粋すぎるくらいの「人間性」だと言うこともできる。

 倒錯と死と滅びに満ちた本書の世界において、人ならざるものたちが、一途で歪んだ目的のために目指す先に、はたして何が待ちかまえているのか。本書のタイトルである『グアルディア』とは、守護者のこと。その「守る」という思いのなかにある、彼らの絶望と希望を、はたしてあなたはどのように受け止めるのだろうか。(2008.01.31)

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