【文藝春秋】
『グロテスク』

桐野夏生著 

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 べつに自慢するわけではないが、私は小さい頃、それなりに勉強ができる子どもであった。たくさん勉強して、いい大学に入り、一流企業に就職する、あるいは医者や弁護士といった職業に就く――そうすることが人としての幸福につながると、少なくとも当時の両親は信じていたようだし、たとえそうでなかったとしても、「勉強」ができる当時の私に多少なりとも期待するものがあったのはたしかだろうと思う。そして、当時の私はといえば、漠然とではあったがそうした価値観を、あまり深く考えることもなくうのみにしていたところがあったし、頑張ればそれだけの結果を出すことができる「勉強」という、ある意味シンプルなシステムが、それなりに気にいっていたのではないかと今になって思うことがある。

 もちろん、「勉強ができる」ことと「頭がいい」こととは根本的に異なるし、その「勉強」にしたところで、上に行けば行くほど難しくなり、また自分よりもっと「勉強」ができる者もザラにいたりする。そして言うまでもないことだが、いい大学を出て、一流企業に就職することが必ずしもその人の幸福につながるわけでもない。では、なぜそんな価値観が、世の中の主流を占めていたのか、ということを考えたとき、それはけっきょくのところ、私たちの生きるこの社会がかつて――いや、もしかしたら今もなお―― 一流企業に入った人間の、その後の安定した高収入という部分に大きな期待を寄せていた、というひとつの結論へとたどり着くことになる。

 就職や転職を考えるとき、家や土地といった高額な商品を購入するようなとき、その人間がどのくらいの収入を稼ぐのが妥当なのか、といった計算がなされることがままあるが、ひとりの人間を、あからさまに何らかの数値に置きかえ、比較の対象としてしまうようなとき、はたして人間の価値とは何なのか、ということを考えずにはいられなくなる。人間は平等だといっぽうでうそぶいていながら、もういっぽうではなんらかの基準を設け、ものの優劣をはっきりさせようとする、この社会という得体の知れない、多くの矛盾をはらんだ代物――本書『グロテスク』を読み終えたときに感じた、何とも言い表しがたい気味の悪さは、おそらく人間社会が宿命的に抱え込んでしまった暗部をまのあたりにさせられることへの不快感から生じるものなのだ。

 本書は、おそらく同一人物による犯行と思われる、ふたつの殺人事件の不思議な符合について、語り手である「わたし」が語って聞かせるという形で物語が進んでいく。被害者であるふたりの女性のうち、平田百合子は「わたし」の妹であり、佐藤和恵は高校時代の同級生という間柄にある。そして、殺されたこのふたりの女性は、娼婦という夜の仕事をしていた、という点で共通するものを持っていた。

 完璧といってもいい、たぐいまれなる美貌をもって生まれてきた、語り手が言うところの「生まれながらの娼婦」である妹とは異なり、けっして容姿がいいとは言えないものの、昔から勤勉と努力でそれを補おうと躍起になっていたところのあるかつての同級生は、昼は大手建設会社のシンクタンクで働くキャリアウーマンでありながら、夜は娼婦という二重生活をおくっていたという。この外見も、中身もまったく正反対であるこのふたりが、なぜ娼婦という共通項で結びつき、そして同じよう状況で殺されてしまったのか――こんなふうに書いてしまうと、あたかも本書の中心が、不可解な死を遂げたふたりの女性の謎をめぐるミステリーのように思われるかもしれないが、本書を少しでも読み進めていった読者は、早々にそうした考えを捨てざるをえなくなってしまうことになる。なぜなら、本書の語り手である「わたし」の言葉は、ことごとく悪意が塗り込められており、彼女の語る事柄がどこまで真実をついているのか、判断することが不可能だからである。そして読者の関心は、徐々に事件の真相などではなく、なぜ「わたし」も含めた本書の女性たちが、ここまで歪んだ人格をもつにいたったのか、という点へと移行していくことになるのだ。

 そうなのです。怪物的な美貌を持つユリコとわたしたちは女という同じ生物なのに、そのことがどうしても信じられなくなるのでした。――(中略)――ユリコの前では、わたしたちはあまりにもつまらない、単なる生物学的な意味での女でしかなくなってしまうのですから、怪物は本人以外の人間をすべて無価値な存在にしてしまうほどの力を持っているのです。

 今の時代において「男らしさ」とか「女らしさ」とかいったことを個人に求めること自体、ナンセンスなところがあるのはたしかであるが、そうした流れとはまったく別に、やはりこの社会は今もなお男性優位の原理が根底にあり、世の女性に対して美しさという価値観を求めているのも厳然たる事実である。だが、もって生まれた自身の容貌と、生まれ落ちた環境だけは、本人の努力だけではどうすることもできない領域だ。大企業のオーナーであるとか、政治家といった多くの富をもつ家庭に生まれる者と、そうでない者、あるいは生まれつき美しい容貌をもって生まれる者と、そうでない者――個人のちょっとした努力や才能などまったくの無価値となってしまう、このうえなく理不尽な世界で、それでも生きていかなければならないことにいち早く気づくのは、常に女性のほうである。男以上に外見の美しさでその価値が判断される立場にいるぶん、世の女性たちはより「女性らしさ」というものを求められる生き物だと言うことができる。

 そういう意味では、常に怪物的な美しさをもった妹と比較される運命にあった醜い「わたし」が、誰よりも早い時期に、自分の生きる社会の本質に気づいたのは間違いないだろう。生まれつき裕福な家庭にあるわけでもなく、また誰もが注目せずにはいられない美貌にも恵まれなかった「わたし」は、妹への悪意を募らせることで、自分の価値観をたもってきたと語る。そして、目には見えない、しかし徹底した階級社会によって支配されているQ学園の高等部に入学してからは、まるでそうした生まれつきついてしまっている格差に対抗するかのように、「悪意」の鎧をますます分厚くしていき、学園生活を乗り切ろうとした。本書には「わたし」以外にも、同じように環境にも容貌にも恵まれなかった女性としてミツルという女性も登場するが、彼女の場合、ひたすら勉学に励み、学力を維持していくことで自分の価値観をたもっていくことを選んだ。そして前述の和恵については、愚かなまでに勤勉と努力への道を突き進んでいくことしかできない女性として書かれている。

 生物学的に女である、というだけでは、けっして満足しないこの男性優位社会のなかで、しかしそれでもなお自分の価値を認めてほしい、と思ったとき、はたしてどのような方法でその社会と立ち向かうべきなのか――ユリコのような美貌をもたない、社会が求める「女性」として生きられない女たちの、おぞましくもしたたかな生き方は、ともすると『OUT』における死体の解体描写以上に不気味なものでさえあるのだが、とくに和恵の、まっすぐであるがゆえに周囲にも自身にも客観的な視点を向けることのできなくなった壊れっぷりは、不気味さを突き抜けて、むしろ爽快でさえある。なぜなら「わたし」の身につけた「悪意」の鎧は、あくまでこの社会を乗りきるための防衛手段であり、ミツルの身につけた学力も、けっきょくは新興宗教という逃げ場に向かっていったのに対して、和恵はひとり現実社会にとどまり、なおかつ夜は娼婦という二重生活を営むことで、世の上位に立つ男性たちと正面きって戦いつづける、という道を選んだからだ。いや、むしろ和恵の主観でとらえるなら、彼女は娼婦となることで、はじめて男性より上の立場に自身を置くことに成功した、とさえ言えるだろう。たとえその姿が、客観的には怪物的なものであったとしても、である。

 客が喘いだ挙句に出すあの白い液体が、あまりに微量なので驚くことがある。あんなちっぽけな結果とために、男たちはあたしたち娼婦を買う。――(中略)――あたしは男に生まれなかった自分を、この夜、初めて幸せだと心の底から感じた。なぜなら、あたしは男の欲望がつまらないものだと知ったから。そして、それを受け入れる存在になったから。

 人間の価値は、けっして生まれついた家庭環境や美貌の有無で決まるわけではない。それは頭ではわかっていても、しかしどうしてもそんな「虚しいこと」に囚われずにはいられない本書の登場人物たちを、愚かで滑稽な生き物だと断ずるのは簡単だ。だが本書の本質は、いろいろな意味で「怪物」と化して生きることを選んだ者たちの歪みを描くことではなく、むしろ彼女たちの「怪物」っぷりをさらけだすことによって、この現代社会という「怪物」の歪みを際立たせることにこそある。そのとき、私たちは自分たちが暮らしているこの世界の「グロテスク」さに、あらためて戦慄することになるのだ。(2004.05.05)

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