【新潮社】
『グリーン・マイル』

スティーヴン・キング著/白石朗訳 



 「正義」という概念が人によって、また時代や文化の違いによって容易に移ろいゆく曖昧なものであって、けっして絶対の真理として君臨しているわけでないように、ひとりの人間に対して「善人」「悪人」という判断をくだすこともまた、ある意味で傲慢不遜な態度だと言える。むろん、私たちは生きていくうえで、さまざまな人間とのかかわりを余儀なくされているし、そのなかにはずる賢い人間、自分勝手な人間、人を平気で傷つけてなんとも思わないような人間がいて、そうした人間の悪意が、ときにこちらに何の落ち度がないにもかかわらず、一方的にこちらを傷つけていくような理不尽さが横行することもあることを知っている。そして自身がその立場に立たされたとき、その人物を「悪人」だと判断するのは、多分に自身の主観によるところが大きい、ということも。

 自身が傷つけられたことも、相手が傷つけたこともまぎれもない事実だとしたとき、そこになんらかの理由がなければ納得できない、というのが実情だ。そしてそうなったとき、私たちにできるのは、相手を憎むか自分を憎むかの二者択一である。相手を憎むにも、自分を憎むにも理由がいる。相手が「悪人」であるというレッテルづけは、相手を憎むのにもっとも安易な方法のひとつだと言える。だが、そこにあるのは絶対の概念としての「悪人」ではない。より大きな視点でものを見たときに、自分を傷つけることになった行為が、まったく別の意味で何かの善意に貢献する可能性もある。時間と空間に縛られ、また自意識に閉じこめられている私たちに、そうしたマクロの視点はわからないし、わかったとしてもあまり意味がない。仮にわかるとすれば、それは神と呼ばれるような存在だけだ。だからこそ、絶対の正義であるとか、絶対の悪であるとかを定義できる神の存在にすがりたい、という人間の弱さが生まれてくる。人間の心で納得できないことなど、人生においては無数にある。そうした事態に陥るたびに、私たちは自分が人間であること――ちっぽけな人間であることを自覚せずにはいられなくなる。

 そうとも――わたしは思った――人間はみな、サーカス鼠なのかもしれない。わたしたちが住んでいるベークライトの家の雲母の窓からは、神やその天国の客人たちがのぞきこんでいるというのに、そんなこともほとんど知らぬまま、あたりを走りまわっているだけのサーカス鼠。

 本書のタイトルにもなっている『グリーン・マイル』とは、コールド・マウンテン刑務所のなかでも、「Eブロック」と呼ばれる、死刑が確定した囚人を収容する区画の中央を走る、ライム・グリーンのリノリウム張りの通路のこと。左右を独居房に挟まれたその通路は、死刑囚にとっては最後に歩くことになる通路であり、その通路の先に待っているのは電気椅子による死のみである、という意味で、まさに「最後の通路」ということになる。電気椅子というアイテムからもある程度推察されるように、本書の舞台となっているのは、1932年のアメリカ。そのときコールド・マウンテン刑務所Eブロックの看守主任の地位にあったポール・エッジコムが、死刑囚として出会うことになるある男のことを書いたこの物語は、今は老齢に達し、ジョージア州の老人ホームで暮らしているポールが昔を回想し、その出来事を書き綴る、という体裁をとっている。そしてこの、老齢の語り手が現在から過去を回想するという形式が、本書では重要な意味あいを帯びてくることになる。

 1932年のコールド・マウンテン刑務所に、ひとりの死刑囚が収監された。彼の名はジョン・コーフィ。2メートルを越える巨漢で、幼い双子の姉妹を強姦したうえで殺害したという話だったが、ポールが目にしたコーフィは、その巨漢に似合わず無知な子どものようにおとなしく、そして暗闇を怖れてよく涙を流す黒人だった。古い新聞記事や送られてきた報告書を読むかぎり、彼が双子の幼女を殺害したのは揺るぎない事実のように思えたが、コーフィが「Eブロック」のなかで発揮するヒーリングの力が、ポールをはじめそこに勤める者たちにひとつの疑念を起こさせることになる。はたして、コーフィは本当に報告書にあるような、凶悪な殺人犯なのだろうか、と。

 手を当てるだけでポールを苦しめていた尿路感染症を治癒し、また踏み潰されたネズミの命さえ救ったコーフィの能力は、本書のなかでも指摘されているように、キリスト教におけるイエスが「聖書」のなかで何度も示してみせるたぐいのヒーリングを思い起こさせるものだ。その力をその身をもって思い知ったポールが、神のごとき癒しの手をもつコーフィと、凶悪な殺人犯としてのコーフィの、あまりにちぐはぐなその印象を疑問視したとしても不思議ではない。本書には、コーフィが犯したとされる双子殺害の真相を探るというミステリーとしての要素もあり、じっさい本書の最後ですべての真相が明らかにされるわけであるが、たとえばメアリー・W・ウォーカーの『処刑前夜』のように、死刑囚の冤罪がテーマというわけではない。本書のなかでより重要なのは、むしろコーフィという人物の周囲で巻き起こるさまざまな人間ドラマであり、またそこからどうしようもなく気づかされてしまう、人としてのちっぽけさ、その愚かさを描いていくことにこそある。

 死刑囚を収容する刑務所を舞台としているがゆえに、本書のなかでは何人かの囚人が電気椅子――<オールド・スパーキー>によって処刑されていくが、その過程について、まるで専門家であるかのごとく事細かに描かれている。囚人を電気椅子に固定するさいの姿勢ひとつにいたるまで、その意味づけを説明するような丁寧な描写の意図は、たんにその場面にリアリティをもたせようとするためのものではなく、他ならぬ人が人を殺すという生々しい現実を、ともに読者に共有させるためのものである。そしてそれと同じように、現在の語り手であるポールの口から、かつての同僚や上司、妻といった、親しい人たちの死についても語られる。そう、当時のことを知る者は、もうポール以外の誰もいないという現実――そのなかには、有力者のコネを後ろ盾にやりたい放題やっていたパーシーのような、なんともいけ好かない人物もいたし、その回想を追うかぎりで、パーシーの存在は常に人間関係に摩擦と緊張感をもたらすものであったが、その彼も、すでに過去の人物である。

 本書はパーシーや、老人ホームに勤務するブラッド・ドーランのように、嫌悪感あふれるキャラクターの書き方が秀逸であり、彼らとの関係がいわば物語の推進力となっている部分もあるのだが、老齢に達した語り手によって物語られる本書において、いずれの死も同等のもののように扱われているふしがある。それは、死がすべての人間に平等に与えられるもの、という老人ならではの悟りの境地にも似たものがあるのだが、そんななかで唯一の例外が、他ならぬコーフィだと言っていい。ポールにとって特別な意味をもつことになるコーフィ――そのヒーリングの能力に、語り手がどのような意味をもたせようとしているのか、じつはその点こそが、本書最大のテーマである。

 新約聖書において、イエスは罪を着せられて処刑されたとある。死刑囚として処刑されるのを待つ身のコーフィの姿が、そこにダブって見えてくるのも、著者の計算のうちだろう。本書がそのラストにどのような結末を用意し、また本書を読み終えた読者が、何千年経っても相変わらずちっぽけで愚かなままである人間という存在に、どのような感慨をいだくことになるのか、ということを考えると、本書のテーマの深さというものに慄然とさせられる。それぞれの人生の最後にかならず用意されている「グリーン・マイル」の、その意味について、ぜひとも考えてみてほしい。(2007.12.01)

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