【中央公論新社】
『偉大なる王(ワン)』

ニコライ・A・バイコフ著/今村龍夫訳 



 たとえば、人間とそれ以外の動物との関係というものを考えたとき、まず思い浮かぶのは、その動物が私たちにとって有益かどうか、というものである。愛玩動物にしろ、家畜にしろ、その存在が人間にとって何らかの役に立つ、という前提があって、はじめてその関係性という問題が取り上げられるということであり、逆にいえば、もしその動物が人間にとって害にしかならないのであれば、そこにはどんな関係性も成り立たず、人間社会を守るという名目のために駆逐するという道しか残されない。

 私たち人間は主観の生き物であり、それゆえにどうしても自分を中心にした判断基準をもってしまいがちであるが、この「人間にとって有益かどうか」という判断基準もまた、そうした独断的ものの見方の産物であるということを、私たちはどれだけ意識しているだろうか。もちろん、他の動物であっても、けっきょくは自己本位な生き方しかできていないのかもしれないのだが、少なくとも彼らのなかにある「有益かどうか」の判断は、自分たちが生き残れるかどうかという生存本能くらいのものであって、たとえば私たち人間のように、かぎりない金銭欲や征服欲など、必要以上の欲望を「自分にとっての有益」に置き換えたり、あるいは自分たちにとって快適な生活のために、自然そのものを作り変えようとするような行動をとることはない。そういう意味で、私たち人間はあるいは、自然から遠く離れたところに来てしまった生き物なのかもしれない、ということをふと思わずにはいられなくなる。

 昔、モスクワの動物園で虎をみたことがある。オリの中の虎も虎だが、野生の虎はまた別だ。密林では虎が主人公だ。人間じゃない。

 今回紹介する本書『偉大なる王(ワン)』は、ある牡のシベリア虎に焦点をあてた、中国密林地帯を舞台とする動物小説であるが、この物語の中心に君臨するシベリア虎は、他を圧する堂々とした体格ばかりでなく、その額に「王」、また後頭部に「大」という漢字が見られることから、特別なひとつの個として「偉大なる王」と呼ばれている。そして、他にも数多くいるはずの、種としてのシベリア虎というくくりではなく、そのなかのある個体を特別な存在として認識するというのは、いかにも人間的なもののとらえ方ではあるのだが、本書のなかでは、それが人間だけのものではなく、密林に住むあらゆる動物にとっての共通認識であるという大前提のもと、物語が進んでいくところがある。

 ゆえに、そうした特徴をまだ有していない幼少期の彼は、固有の存在ではなくたんに「子虎」、あるいは「兄虎」という表記で書かれている。とくに「兄虎」という表記は、生まれたときに一頭だけでなく、妹となる牝虎と一緒だったからであるが、この幼い牝虎のエピソードも、二頭が成長して別々の行動をとるようになると、母虎と同様、物語のメインとしては登場しなくなる。

 こうしたある種の割り切った物語構成は、「偉大なる王」以外のあらゆる動物に対して共通の姿勢でもある。たとえば、密林に住む動物は虎だけでなく、熊やシカ、オオカミ、イノシシや野鳥など、じつに多種多様であり、物語の視点もしばしばそうした動物たちの、ある個体にフォーカスされることがある。老獪な牡イノシシである「ぼろぼろの耳」や、嫉妬深いアカシカの「ローガリ」、のんびりやのクマ「ミーシカ」など、とくに個性ある個体として登場する動物もいるのだが、そうして焦点のあてられた動物たちが、次の瞬間には「偉大なる王」の獲物として襲われ、絶命するというシーンがしばしば繰り返されるのだ。

 密林や山岳地帯におけるその豊かな自然の移り変わりや、その四季の変化をつうじて、虎をはじめとする数々の動物の生態を、まるでドキュメンタリーのごとく描き出していく本書は、自然や動物について相当に詳しいと思わせるだけのリアリティ溢れるものであるが、そのリアリティの最たるものとして、「偉大なる王」を頂点として成立している密林の掟ともいうべきものがある。そしてその掟は、私たち人間であってもけっして例外ではない。そう、本書においては、人間もまた他の動物とまったく同じ立場であり、それゆえに人間であっても、うかつな行動に出れば「偉大なる王」の食料にされてしまうのだ。

 二本足の人間が持つ知的能力について、老イノシシはあまり高く評価していない。それは自分を万物の霊長と呼ぶ人間の愚かさ、物わかりの悪さ、肉体的な弱さを、何回もその目でしっかり見てきたからである。

 本書に登場する人間たちは、大きくふたつに分けることができる。ひとつは古くから密林を狩場とし、自然と同化しながら動物たちを狩ることで生計を立てている猟師たちであり、特別な大きなシベリア虎を「偉大なる王」と呼んでいる者たちでもある。彼らがもつ「偉大なる王」への畏怖と神聖視は、彼らが自分たちもまた密林を生きる生き物のひとりにすぎないという意識から来るものであり、基本的に密林という自然のあるがままを受け入れて生きているがゆえに、動物を狩る身でありながら、自然との調和に重きを置く。その代表格がトン・リという名の老人であり、長年の密林での経験によってつちかわれてきたであろう鉄の意志と精神力の強さに、「偉大なる王」であっても一目を置く唯一の人間として書かれている。

 そしてもうひとつが、「外来者」と呼ばれる人たちである。彼らは密林を開拓して町をつくり、鉄道を敷いて機関車を走らせるためにやってきた者たちであり、言ってみればありのままの自然を受け入れるのではなく、自分たちに都合の良いように自然を作り変えていくことを目指している。そして、密林そのものを奪おうとしている彼らは、「偉大なる王」にとってははっきりとした敵であり、それまでさまざまな動物たちと戦い、勝利してきた彼にとって、もっとも手強く許しがたい敵として認識される運命を負っている。

 ここで、私たち自身のことを振り返ったときに、自分が人間としてどちらの側に属しているかを考えると、ほとんどが後者――すなわち「外来者」として自然を破壊する側であるということを認めざるを得なくなるのだが、そのことを残念に思ったり、あるいは罪悪感をおぼえるというのは、けっして間違った感情ではない。なぜなら、そのとき私たちは、本書のなかの自然がすでに失われてしまったものであることを悟っているからだ。そして、それは同時に「偉大なる王」の存在や、そんな個体を特別なものとして敬う心の喪失を意味するものでもある。

 自然とともに生きるというのは、けっして容易なことではない。だからこそ私たち人間は、自分たちの周囲の自然に手をくわえ、結果としてより快適な生活ができるようになった。だが、それは今ある自然に満足し、それを受け入れていくという意思とは正反対の発想でもある。「偉大なる王」という、ある意味で霊長目の上に君臨する虎の物語は、自然から離れて生きるようになってしまった私たち人間のむきだしの姿――地位や名誉といった社会的な位置づけをすべて取り払ったあとに残るものと向き合い、自分が本来どのような存在なのかを思い知らされる物語でもある。(2009.11.19)

ホームへ