【評論社】
『グリーン・ノウの子どもたち』

L.M.ボストン著/亀井俊介訳 

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 私が今住んでいるアパートのすぐ前には小さな公園があり、天気のいい週末などは、子どもたちが歓声をあげて遊んでいる姿をよく見かけるのだが、そんな彼らの様子を見ていると、はたして子どもというものが何を考え、どんなふうに世界を捉えているのかと不思議に思うことがある。そして同時に、自分にもかつて幼い子どもだった頃がたしかにあったはずなのに、今ではすっかり忘れてしまって思い出すのもままならない、という事実を再認識させられることにもなる。

 子どもたちにとっての「世界」というのは、私たち大人のそれと比べてずっと狭く、限られた範囲のなかに収まるものだ。はじめは、家庭環境が子どもにとっての全世界である。そこから家の周囲や近所というふうに世界が広がり、学校に通うようになれば学校や通学路もその範囲に含まれていくが、その外側に、まだまだ自分の知らない大きな世界が広がっていること、そしてそこには自分の知らない大勢の人が、自分と同じように生活をしていることを、いずれは想像できるようになる。ある意味で、それこそが大人になるための第一歩と言うことができるのだが、逆に子どもたちにとっては、自身の認識で実感できるものこそが全世界であるという思いが、大人たちよりも強固だということでもある。それゆえに、その狭い世界での居場所――真に心を落ち着けることができる、自分の一部だと感じられるような場所が見いだせないとき、脆弱な子どもたちの精神は容易に追い詰められてしまうことになる。

 今回紹介する本書『グリーン・ノウの子どもたち』は、ちょっとしたファンタジーを思い起こさせるような、不思議な物語である。だがそれ以上に注目すべきなのは、主人公がそれまで知らなかった場所へ出かけていくという構成でありながら、彼のたどり着いた場所が異世界というよりは、むしろ彼のためにあつらえたかのような、彼のいるべき場所として捉えられているという点である。

「あなたは、わたしの知っている顔のうちの、だれかしらと思って、まえからたのしみにしてたの。みんな、いつでもここにかえってくるのよ。――」

 主人公の少年トーズランド、通称トーリーが冬休みを過ごすことになるグリーン・ノアには、彼の大おばあさんにあたるオールドノウ夫人の住む屋敷がある。物語は、このグリーン・ノアとオールドノウ夫人の屋敷を舞台として展開していくことになるのだが、その背景には、トーリーのとらえる「世界」での自分の居場所をなかなかもつことができずにいる、という事情がある。このあたりの心理についてははっきりと書かれているわけではないのだが、トーリーの両親が今ビルマにいて離れ離れになっていること、彼の母親は亡くなっていて、父親の再婚相手とはうちとけられずにいること、といった事情は、多感な少年の足場となるべき場所の不在を暗示するものである。

 グリーン・ノアとオールドノウ夫人の屋敷は、トーリーにとっての拠り所となるべき場所として登場する。それまで知ることのなかった新しい環境と、それまで知らなかった新しい家族――期待と不安の入り混じった心境をかかえたトーリーが、その場所をどのようにして自身の居場所として確立していくことになるのかが、本書のおおまかなあらすじであると同時に、この物語の骨子でもある。もちろん、オールドノウ夫人はひ孫にあたるトーリーを歓迎してくれているし、彼女の住む屋敷は、まるで魔法使いの家のような魅力に満ちている。だが、それだけでは彼がそれまでの休みをすごしてきた校長先生の家と大差ない。そこでの彼は、あくまで客人という扱いだったのだ。トーリーが他ならぬグリーン・ノアの子どもだという自然な認識を獲得するためには、それなりの「通過儀礼」が必要となってくる。

 そして、その役割を担っているのが、かつてこの地と屋敷で暮らしていた子どもたちであり、それが本書のタイトルにもなっている『グリーン・ノウの子どもたち』につながってくる。彼らはまるで、日本で言うところの「座敷童」のように、気配や物音を立てたりはするものの、当初はなかなかその姿を現わさない。トーリーはそんな彼らと友だちになるべくあちこち探しまわったり、オールドノウ夫人に彼らにまつわる話を聞いたりしながら、しだいに彼らのことを知るようになっていくのだが、非常に興味深いことに、トーリーにとってははるか過去の時代の子どもたち――それも、ペストであっけなく死んでしまった子どもたちとの距離感を、彼は楽々と飛び越えてしまっている。本書は、私たちの常識に照らし合わせればけっしてありえないことが頻発する物語であり、場合によっては「オカルト」という枠でくくってしまいそうになるようなものであるのだが、まだ世間の常識に染まりきっていないトーリーにとっては、純粋に目に見えるもの、耳に聞こえるものが「全世界」であり、そこには私たちが安易に境界線を引いてしまう事柄からは自由な世界が広がっている。

 私はこの書評の冒頭で、子どもたちが見ている世界のことに触れたが、本書はまさに子どもたちが見ている世界の物語だ。そして、だからこそこの物語の主役はトーリーをはじめとする子どもたちであり、周囲の大人たちにとっては、自分たちには理解できない「不思議なこと」として片づけられてしまう。唯一の例外がオールドノウ夫人だが、おそらく相当に歳をとっているこの老女は、その年齢と、トーリーと似たような境遇だった過去ゆえに、世間の常識の外に自身を位置づけているところがあり、それはむしろトーリーのような子どもたちの領域に近いと言える。

 洪水で水浸しになった土地を、まるでノアの箱舟のごとくボートで向かった新天地は、今でこそ「グリーン・ノア」と呼ばれているが、本書のタイトルでは「グリーン・ノウ」となっている。この呼び名の違いはじつのところ、物語の本質にかかわるところでもあるのだが、ずっと以前に呼ばれていた、その土地を指し示す言葉は、そのままトーリーがかかわることになる友人たちの居場所とも呼応している。過去に死んでしまった、でもその後もその土地と深く結びついている「子どもたち」にとって、そこはあくまで「グリーン・ノウ」なのだ。そして彼らとのかかわりによって、しだいにトーリーの居場所も、現在の「グリーン・ノア」ではなく、過去の呼び名である「グリーン・ノウ」のほうに引き寄せられていく。それこそが、トーリーにとって重要なことなのだ。

 けっしてめぐり合うことのない人たちと、絶対的な時間の境界を跳び越えて友だちとなっていく本書は、よくよく考えると相当にものすごい作品である。そして同時に、そうした境界を軽々と越えてみせる子どもの想像力というものに、あらためて思いを馳せずにはいられなくなる。はたしてあなたは本書を読むことで、どれだけ子どもたちの感じとる「全世界」を思い出すことができるのだろうか。そしてそのとき、あなたの胸に去来するのはどのような感情なのだろうか。(2013.12.25)

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