【白水社】
『グールド魚類画帖』

リチャード・フラナガン著/渡辺佐智江訳 



 私という一個人を基準とするなら、世界というのはこのうえなく広大なものである、という事実を認めるのにやぶさかではないが、同時に私たちがふだん生活しているなかにおいて認識している「世界」――個々の主観によって把握される世界というのは、ごくごく限られたものでしかない、というのもまた事実である。それは、言ってみれば私たちが繰り返している日常の範囲に収まるものであって、個人にとってはその限りなく限定された枠内こそが世界のすべてであったとしても、見た目上、とくに大きな支障をきたすわけではない。だからこそ、私たちにとって休日にどこかへ遊びにでかけるという行為は「非日常」となり、私たちはその「別世界」でのイベントを思う存分楽しむことができるのだ。

 世界は広大で、さまざまな国があり、私たちの知らないところで世界を維持するためにさまざまな仕掛けが動いている、というのは、あくまで知識として認識することはできたとしても、はっきりとした形で自分たちの日常生活とかかわらないものであるなら、それらはその個人にとっては一種の別世界である。別世界、という表現をもちいたが、それはたとえばスカーレット・トマスの『Y氏の終わり』における「トロポスフィア」のように、現実的にはまったくありえそうにない、という意味での「別世界」、いわばファンタジーとしての異世界だけを指すものではない。アメリカで9.11同時テロが起きたとき、センタービルに旅客機が突っ込むという映像をテレビで目にした人は多いと思うが、そのときそのテロを、まぎれもない自分の日常世界の延長としてリアルにとらえることができた人は、はたしてどの程度いただろうか。

 戦争を知らずに育った私をはじめとする戦後生まれの世代の人間が、どれだけ戦争のことを語ったとしても、そこには「自分が戦争に駆り出されることはない」という認識が、まさに日常のものとして存在する。私にとって戦争というものそれ自体が「別世界」だと言ってもいい。そんなふうに考えたとき、人間という意識をもって生まれた生物の、このうえなく主観的な――そしてそれゆえにこのうえなく孤独な立場をあらためて思い知らされずにはいられない。

 その雨の午後、やつがおれの前に立ち、犯してもいない殺人の罪状を読み上げたとき、おれはサラ島の恐ろしい真実を悟った――ここは人間の植民地などではなく、人間を装った魚の植民地だということを。

 本書『グールド魚類画帖』は、ふたつの世界によって成り立っている。ひとつは、タスマニア島で旅行者相手に、インチキ家具を売って生計を立てているシド・ハメットという男の属している現実世界。そしてもうひとつは、そんな彼ががらくた同然の洋服だんすから見つけ出した「魚の本」のなかに書かれている世界である。約二世紀半前、まだタスマニアがファン・ディーメンズ・ランドと呼ばれる流刑地だった頃に、ウィリアム・ビューロウ・グールドという囚人によって書かれたとされる「魚の本」は、およそ紙の代わりになるものを片っぱしから集めて、魚の水彩画を描いたものをまとめた混沌の本であり、その余白はびっしりとグールドの手記によって埋め尽くされていた。

 現実のタスマニア島と、「魚の本」のなかに書かれているファン・ディーメンズ・ランドという流刑地――奇しくも地理的には同じ場所に位置するそのふたつの世界は、二重写しのように存在し関係していながら、決定的にお互いに交わることのない世界、という意味で、当初はお互いにとっての別世界を構成している。それは、たんに時間軸がズレているだけ、ということではなく、一方がもう一方にとっての虚構としての位置づけである。「魚の本」は、そんなお互いの世界を橋渡しする唯一の可能性、いわば媒介として存在する。

 満ち潮になると天井近くまで水位が上昇するという過酷な独房のなかにあって、自分の血をはじめとするあらゆるものをインク代わりにして書かれたとされているグールドの手記――そもそも囚人が私的な文章を書くことすら禁止されているような環境にあって、それでもなおこうした手記をひそかに書き続けたという「魚の本」の内容が、もし真実であるとするなら、グールドの書くことへの執念はすさまじいものであり、まさにその理由によってシド・ハメットは、この手記の内容に魅了されることになるのだが、そうした彼の個人的な気持ちとは裏腹に、権威ある歴史家や博物館の専門家たちは、およそ荒唐無稽な代物として「魚の本」をまともにとり扱おうとしない。なぜなら、彼らにとって「魚の本」は、はじめから「別世界」の出来事でしかないからだ。

 本書を読み進めていくとわかってくるのだが、「魚の本」の内容というのは、それこそ狂気じみた様相を呈しており、いかにも虚構の話にふさわしいものだ。「十二の魚をめぐる小説」とサブタイトルにあるように、本書の各章には魚の名前が割り当てられており、それぞれの章の最初は、「魚の本」を髣髴とさせる水彩画によって飾られている。そして「魚の本」には、まずタスマニア流域でよく見られる魚介類のスケッチが描かれ、その余白に手記が書かれていた、という体裁をとる。それは、グールドがまず画家であり、魚のスケッチを描くことが最初にあった、ということを意味するのだが、本書を読み進めていくと、そもそも彼は正規の画家というわけではない、ということがわかってくる。グールドが魚の絵を描くことになったそもそもの目的は、外科医と呼ばれる狂った男の野心がからんでいたのだが、イギリス学会に認められるという彼の野心は、じつは何の根拠もないことであり、狂気だけがその妄想を支えている状態だった。

 さまざまな登場人物たちの、偽りと虚飾に満ちた物語――そもそも、グールドという名前そのものが偽物であり、本人はちんけな詐欺師でしかない、といったことが示唆されている本書のなかで、書かれたことの何が真実で何が虚構なのかといった判断は、もはや何の意味ももたなくなる。まるで迷宮のように複雑に入り組んだ虚構の物語をさまよい歩くかのような本書において、しかし魚のスケッチだけが、まぎれもない事実をもとにして描かれたものとして圧倒的なリアリティを伝えてくる。同じ人間が家畜のように殺されて、まるでモノであるかのようにぞんざいに扱われ、打ち捨てられていく――およそ秩序や人間らしさとはかけ離れた出来事が、それこそ日常と化している流刑地サラ島の歴史という「別世界」は、そこに書かれた言葉よりも、むしろ魚のスケッチによってこそ、私たちの生きる現実世界に干渉する媒介として機能することになる。

 そういう意味で、本書に描かれた魚の水彩画は、そこに唯一といっていい真実の姿がある、という点において大きな意味をもつことになる。最初はたんに、重い刑罰を逃れるためのものでしかなかった魚のスケッチ――妙に人間の顔に似ているというそれが、いつのまにかグールドにとって、真実を表現する唯一の手段となったとき、私たちはそこから無限の、あるいは夢幻の物語を見出すことになる。そしてそのとき、私たちの現実は知らないうちに、虚構であるはずの「別世界」によって凌駕されていることに気づく。

 そこに書かれた言葉がはたして真実であるのかどうか、究極的に判断するための方法を私たちは知るよしもない。だが、だからといって言葉そのものを拒否してしまっては、私たちは絶対の孤独のなかを生きなければならなくなるし、それができるほど私たちは強いわけではない。荒唐無稽で、いかにも物語めいたグールドの手記――だが、訳者あとがきによれば、グールドという名の囚人はたしかに存在し、その絵はオーストラリアの美術資料館に現存するという。本書はたしかに小説にすぎないが、著者はそのなかにグールドの水彩画という真実を加え、そこからその絵がたしかに人の手によって描かれたものだという物語を生み出した。その人生が一筋縄ではいかないものであるのと同様、本書もまたまったくもって一筋縄ではいかない物語だ。はたしてあなたは、本書のなかにどのようなものを見出すことになるのだろうか。(2008.09.01)

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