【早川書房】
『後藤さんのこと』

円城塔著 



 この書評をお読みの方は当然のことながら、これから本書『後藤さんのこと』の書評がはじまるものとご期待であろうと思われる。むろん、そのことを否定するつもりはないのだが、これから書評しようとしている短編集が、ほかならぬ円城塔の作品であるという点を考慮に入れたときに、はたしてその書評を、他の作品のそれと同じようなものとして読み進めていいものかどうか、という疑問にいたった方がいらっしゃるとすれば、少なくともあなたは円城塔の作品について、何らかの形で触れた経験がおありだと推察することができる。そしてその経験があなたに何をもたらしたのかについても、ある程度の予想をつけることは可能だ。著者の作品を、これまで読んできた小説と同じようなスタンスで読んではいけない――少なくとも、これまであたり前のように実施してきた小説への接触のプロセスは、かの作品については何の意味ももたない、というある種の覚悟である。

 であるなら、この書評についてもそうしたスタンスを、たとえ断片的なものであれ、用いてみるべきではないか、と思いいたるのは当然の帰結であり、それは小説の書き手と評者が同じ土台に立つことにもつながる。というよりも、そうした立ち位置にいたらないかぎり、仮に書評を書いたとしても、それはあくまで書評一般ではあっても、本書の書評としては成立することはない。だから、この書評をお読みの方々は、ほかならぬ『後藤さんのこと』の書評として書かれているこの書評が、いつもどおりの書評の形式にのっとっているわけではない、ということを、まずはご承知おきいただきたい。

 さて、これからちょっとしたありきたりな比喩を用いてみる。できればその比喩をリアルなものとして想像してもらいたい。私たちは今、言葉の砂漠に立っている。見渡すかぎり、言葉で埋め尽くされている砂漠――言ってみれば、これが本書のイメージである。むろん、小説というものはいずれも言葉で埋め尽くされたものではあるのだが、私たち読者は少なくとも、その言葉の羅列には何らかの法則性があることを知っており、それを読み解くための知識や、そのためのツールも持ちあわせている。そういう意味では、小説一般というのはどこかの町並みを歩くようなものだと言うことができる。

 だが、本書にかんしては、そうではない。いっけんすると、茫漠とした砂漠のようなのだ。あるいは人によっては、陽炎のように立ち現れる蜃気楼を見ることもあるかもしれないが、それが本物なのかあるいは幻なのかは、その場にいるかぎりはわからない。そして砂漠を渡り歩くには、街中を歩くような感覚では駄目だ。それなりの知識と、それなりの装備が必要であることは、想像に難くない。しかしながら、どのような知識、あるいはどのような装備が必要なのか、という点については、この書評を読んでも明確な回答を得ることはできないだろうとあらかじめ申し上げておく。いや、あるいはそうした前知識こそ余計なものかもしれないのだ。読書において、書かれていることを理解することは大前提ではあるのだが、そうしたセオリーすら、本書にかんしては通用しないのだから。

 さて、まるで時間稼ぎをしているかのように思われる方もいらっしゃるかもしれない。けっきょくのところ、本書はどのような小説なのか? この命題の回答として、おそらくもっとも本質に近いだろうと思われる部分を、とりあえず引用してみる。

「大」と「犬」との差分は「、」として与えられることになり、「大」がなければ、何に対して「、」を積分すれば良いのか不明になって、「犬」が再現されることは起こらない。
「大」を欠き、「、」の形を持った差分の群れが飛び交う様。それが、羽山のノートを検討しはじめた私の、最初の印象となる。

(『ガベージコレクション』より)

 たとえば、本書のタイトルにもなっている短編『後藤さんのこと』であるが、「後藤さん」という言葉から、私たちは必然的に自分と同じ人間の誰かを想起する。その人物の性別や生い立ち、外見や社会的立場まではわからないが、少なくとも「後藤」という姓をもつ人物を指し示す記号であるという認識を、私たちは何の疑問もなく受け入れてしまっているのだが、じっさいにこの作品を読んでしまったが最後、そのあたり前だと思っていた事柄が、じつはぜんぜんあたり前でもなんでもないという事実を前に、茫然自失とならざるを得なくなる。なぜなら、そこには「後藤さん」の核となるような部分が本質的に欠落しているからだ。

 差分の大本となる「大」が抜けて、意味不明の「、」だけで構成されている「後藤さん」が書かれているのが、『後藤さんのこと』という作品である。それゆえに、そこには後藤さんの性質についていくつもの事例が書かれているにもかかわらず、読めば読むほどその本質が見えなくなっていく。時間の概念を超越してどこにでも偏在し、あるときは粒子のようであり、あるときは波のようでもあり、化石として埋まっていたり、エネルギーとして有効利用されていたり、あるいは偽物と本物がいたりしたあげく、物語が終わる前に気を利かせて自分から話を終わらせてしまう「後藤さん」は、言ってみれば何にでも置き換え可能な存在だと言うことができる。だが、どんなものでもあるということは、どんなものでもない、ということでもある。

 あるいは、こんなふうに言うことができるかもしれない。時間の流れについて、私たちは過去から未来へと流れるものという認識をもっている。だが、それは自分という主観で物事をとらえるという「偏見」をもった見方でしかなく、たとえば未来の領域にあった時間が現在という一瞬を経た後は、永遠に過去の領域へと流れ去っていくものととらえるなら、時間というものは未来から過去へと流れているという見方もできる、ということである。

 まるで、言葉の砂漠を地図もコンパスもなくさまよい歩くかのような本書であるが、ではまったくの支離滅裂な作品なのかと言えば、じつはそうでもない。少なくとも、そこが言葉の砂漠であるという最低限の認識はできるよう、かなり周到な計算のうえに本書が書かれているという印象もあったりするし、そうでなければ私たちは、それがひとつの小説であるという認識すらできないことになる。ただ、本書がどのような意図をもって書かれたのか――少なくともテーマ性やドラマといった要素がどうしても見えてこない以上、私たちは広大な砂漠を、どこが目的地なのかもわからないままひたすらにさまよう歩くことを覚悟しなければならない。そして、それもまた小説であり、また読書でもあると、もしかしたら気がつく方が、このなかにもいらっしゃるかもしれない。もっとも、ここまで書いても私が紹介したかった本書『後藤さんのこと』について、おそらく何も評していないも同然だという点については、全面的に肯定する。ようするに――そういう小説なのだ、本書は。(2012.08.26)

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