【早川書房】
『ならずものがやってくる』

ジェニファー・イーガン著/谷崎由依訳 



 携帯電話が個人のツールとして普及してから、人と会うさいに生じるかもしれない「すれちがい」の危険性は、ほぼ撲滅されたと言っていい。以前であれば、待ち合わせの時間と場所を決めたとしても、さまざまな要因でけっきょく会えないという可能性もままあったが、お互いの携帯電話の電話番号か、あるいはメールアドレスさえ知っていれば、さまざまな不測の事態も即時に連絡をとりあって解決することができるからだ。そもそも、携帯電話でいつでも連絡がつく時代においては、わざわざ待ち合わせの日時や場所を厳密に決めなくとも、いつでも言葉を交わすことができる。その気になれば、いつでもつながることができる――今となっては個人が携帯電話をもつことがあたり前で、それ以前にお互いがどうやってそのつながりを確かめあっていたのか想像することさえ難しくなってきているが、インターネットというツールではさらに、過去の知り合いについて、その名前や出身地といったキーワードで検索することさえ可能になるような仕組みが普及しつつあるという。

 たとえば、小学校時代に仲が良かった友人、あるいははじめて恋人としてつき合った異性――今となってはどこで何をしているのかわからなくなった、かつて自身と密接な関係で結ばれていた人たちとも、mixiやfacebookといったツールに登録されていれば、容易に探し出すことが可能かもしれない、そればかりか、ある大学の同窓生であるとか、ツアーでたまたま一緒になったグループなど、ごくおおざっぱなつながりであっても、過去に同じ時間を共有していたという理由だけでつながりを見いだせるかもしれないという事実が、現代という時代を象徴しているのだとすれば、私たちにとっての人間関係の意味合いも、昔のそれとくらべて大きく変化していたとしても不思議ではない。それこそ、こうしたツールに生まれたときから親しんできた者たちにとって、物理的な距離や時間の経過が人間関係におよぼすであろう影響は、私などが考えるほど重大なものとして意識されていないかもしれないのだ。

「おい、おれたちは永遠に、互いのことがわかるんだぜ」とビックスが言う。「消息がわからなくなるって時代は、もう終わりかけてる――(中略)――会えなくなっていたひとたちを、すっかり見つけるだろう。あるいは、向こうからこっちを見つける」

 今回紹介する本書『ならずものがやってくる』は、一種の群像劇という形をとった作品である。全部で十三の章に分かれている本書では、章ごとに主体となる一人称の登場人物が異なっていたり、三人称になったり二人称になったり、あるいはルポタージュ形式で物語が進行するかと思えば、別の章では丸々マイクロソフトのパワーポイントを思わせるページが続いていたりと、相当に変則的な構造によって成り立っているところがある。だが、本書の特色としてもっとも象徴的なものを挙げるとすれば、それは物語全体における時間の経過の不規則さという点に集約されることになる。

 たとえば、最初の章に登場するサーシャは三十五歳の女性、盗癖をかかえており、心理療法士によるカウンセリングを受けている身であるが、ここで「かつての上司」として彼女の記憶に浮かぶベニー・サラザーという中年男性が、次の章の主体となっている。四十四歳の彼はあるレコード会社の創始者として有名だが、もともとは悪友とともにパンクロックに打ち込んでいたミュージシャンでもあった。次の章では、まさにベニーがパンクロックにかぶれていた高校時代にまで時間がさかのぼり、バンドのメンバーである五人の恋愛感情の流れがどういうものだったのかが明らかにされていく――という感じで、物語内の時間はけっして一定ではなく、また何らかの規則にのっとっているわけでもない。

 物語内で時間が遡ったり下っていったりするという形式は、小説の技法としてそれほど珍しいものではない。むしろ物語が進むにつれて、同じように小説内の時間もまた過去から未来へと流れていくもののほうが珍しいとさえ言えるのかもしれないが、ここで重要なのは、本書における時間の不規則さは、その時間の不規則さを意識したうえでの構成というよりは、むしろ時間とは別の要素によって各章の順序を決めた結果として、時系列がバラバラになってしまったという雰囲気がある。では、章と章とをつなげる、時系列以外の要素とは何かということになると、そこにあるのは非常に漠然とした人と人とのつながりとしか言いようのないものである。

 ここで一度、本書の最初の章に登場するサーシャとベニーの関係について目を向けてみると、このふたりをつないでいる関係は、かつてレコード会社の社員と社長だったというものであり、そのつながりはけっして強固なものではない。だが、サーシャが主体の章からベニーが主体の章へとつながっていく要素は、まさにその細いつながり以外には存在しない。ここで面白いのは、サーシャとベニーからはじまって、章と章が登場人物どうしの何らかの関係によってつながっていく本書において、このふたりの人間関係がある意味で両極を成しているという点だ。

 本書が十三の章に分かれ、それぞれの章で主体となる人物が異なっていることは上述した。むろん、主体とならない登場人物も数多くいるのだが、ことサーシャという登場人物にかんするかぎり、章間の直接的なつながりはきわめて薄い。せいぜいベニーの会社の社員だった時代に申し訳程度に登場するだけで、それぞれの章における物語と直接的に絡んでくることは、後半以降にならないと出てこない。いっぽうのベニーについては、その人間関係はかなり濃いものがある。高校時代の悪友であるバンドメンバーの四人を中心に、離婚した妻(むろん、章内の時間によっては夫婦であることもある)やその息子、浮気相手や再婚相手、あるいは音楽業界における師匠とも言うべきルーといった人物など、直接間接を問わず印象的なつながりが見て取れる。そして本書を読んでいくと、ベニーにとってこの高校時代と、この時代を共有した友人たちとの思い出が大きな意味をもっているだろうことは、想像に難くない。

 しかしながら、この大切な過去の時間は、歳月の経過とともに変質を余儀なくされる。そしてその変質は、ときにベニーに痛みをもたらすものでもある。肉体的にも精神的にも最高の時代はすでに過去のものとなり、友人たちとの関係も昔のままではいられない。そしてそれは、ベニー自身についてもけっして例外ではない。だがいっぽうで、サーシャにとっての時間の経過は、ある意味で救いになっている部分がある。本書を読み進めていくとわかってくるのだが、彼女の過去の家庭環境は複雑で、その時代のサーシャはいろいろと鬱屈した気持をかかえていた。そんな過去の自身とある程度距離を置くことができるのは、何よりもそれが過去の出来事であること――時間の経過という距離があるからこそのものである。

 およそ人にかぎらず、世のなかの事柄は常に変化をくりかえし、けっして同じ形を保ちつづけることはない。そしてその変化を象徴するものこそが、時間である。過去にどれだげ深い関係をもっていたとしても、一度会わなくなり、会わない時間が長く続けば、必然的にお互いの関係も疎遠になっていくし、そのあいだのお互いの変化はあるいは当惑をもたらしてしまうかもしれない。そんなふうに考えたとき、誰にでも平等に訪れる時間の経過、それも、過去から未来へと流れていく時間というものが、無慈悲な暴力性を秘めているものだということに気づく。そして、本書における時系列を無視した章立てもまた、まさにそうした時間の暴力性を無効化しようとしたもの、時間の経過を超えてつながっていく人間関係をありありと浮かび上がらせようという試みとして、深い意味を帯びてくる。

「時間ってやつはならずものだ。そうだろ? そのならずものたちを、のさばらせておくつもりか?」

 この物語に登場する者たちは、皆一様にままならぬ人生に翻弄され、ときには怒りの激情にかられるようなことさえある。流れていく時間によって変質を余儀なくされる人間関係――だがそのとき、その瞬間において、お互いに共有した時空間というものに目を向けたとき、たとえそこからどれだけ物事が変化していったとしても、その変化したという事実をとらえることができる人間らしさだけは、けっして損なわれることはない。この群像劇が描く物語構造は、はたしてあなたにどのような絵となって展開されるのだろうか。(2013.04.19)

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