【ポプラ社】
『船に乗れ!』

藤谷治著 



 自分の過去というのは、とかくやっかいなものだ。けっして無かったことにできない以上、過去の出来事をとやかく思いわずらってみたところで仕方がないし、それで何かが変わるというわけでもない。だが、今の自分自身を形づくっているのが間違いなく過去の自分自身である以上、けっして無視するわけにもいかないし、そんなことをしたところで何も進展しない。劇的であろうが平凡であろうが、時間は刻一刻と過ぎ去って、当の本人の意思とは関係なく、その人の生きた道程として確実に積み重なっていく。だが、その積み重ねられた過去に対して、その人がどういう姿勢で振り返るのかは、まさにその人しだいである。

 今回紹介する本書『船に乗れ!』は、私立学園の音楽科に通う高校生の三年間を書いた青春小説であるが、同時にこの作品をたんに「青春小説」というジャンルでくくってしまうことに、私は違和感をおぼえる。というのも、本書はたしかに高校生の青春を書いた作品であるが、そこには常に「現状」としての高校生活よりも、「過去」としての高校生活という視点が貫かれているからだ。つまり、語り手である津島サトルはすでに中年にさしかかった大人であり、そんな彼が自身の高校時代を回顧するという姿勢が、本書を評するにおいて大きなポイントとなっているのである。

 その当時はよくわかっていなかったことでも、年月の経過によってにわかに見えてくる事柄というものがある。成熟した大人の視点から青春時代を見つめなおすというのは、過去の自分自身を客体化することにほかならない。そして語り手によって客体化された高校時代の「津島サトル」像は、けっして前途洋々というわけではない。ここでいう「前途」とは、当然のことながら音楽家としての前途だ。今という視点から過去を物語るという形式ゆえに、私たちは本書を読み始めてすぐに、今の語り手がごく平凡な社会人として生きており、しかもその高校生活において何か大きな後悔をともなう出来事が生じていること、ことによっては、その「出来事」が今のうだつのあがらない語り手へとつながる契機となっているかもしれない、ということを推察することになる。

 こんな今の自分に耐えられなくなってしまったのだ。――(中略)――あの頃の自分に何があったのか、自分が何をしたのか、そしてそれらは結局どういうことだったのか、鏡を睨みつけるようにして、しっかりと向き合わなきゃいけない。

 親戚のほとんどが音楽家である一族に生まれた津島サトルにとって、音楽をたしなむことはとくに理由を必要としない、当然やるべきこととして認識していたところがある。いや、むしろ音楽とより深く接している自分は、学校のクラスメイトなどとは違う、高貴な存在だという自尊心を満足させる道具として音楽があり、道具としてのチェロであったと語り手は自虐気味に綴っていく。だからこそ、東京芸術大学付属高校の受験に失敗し、祖父が創立者である新生学園大学付属高校の音楽科への進学が、彼が味わった大きな挫折のひとつであったことは、想像に難くない。

 ニーチェの難解な哲学の本を読んでは、その真意もわからないまま悦に入っているという、無邪気なまでの自尊心の高さ――だが同時に、音楽を共通の話題にすることができる同年代の友人たちとの高校生活は、それまでになかった喜びを津島サトルにもたらしたことも事実である。そう、本書に書かれている語り手の高校時代は、けっして青春を謳歌したという満足感で満ち溢れているわけではないが、何ひとつ得るところがなかったというわけでもないのだ。もちろん、上述した「出来事」がなかったことになるわけではないし、それがもたらしたものを打ち消すこともできない。だが、それでも津島サトルの高校時代全体を見渡したときに、音楽家とは程遠い場所にいる今の自分にとって、その時代の出来事はけっして無意味ではないことを、本書は雄弁に物語っているし、そうでなければこの物語そのものが存在しなかったに違いない。

 高校時代の津島サトルはチェリストではあるが、その方面の才能があったわけではない。そして彼が通う高校も、音楽学校としては三流だ。それゆえに、同級生のひとりである伊藤慧といったごく一部の例外をのぞき、生徒の大半は音楽家としての気高い目標を志しているわけでもなく、またその才能もごく平凡なものにすぎない。音楽をテーマとする小説にありがちな、恵まれた才能による天才的演奏のすばらしさは、本書にはない。むしろ、学校側が要求する難解な課題に四苦八苦し、同じ箇所で何度も間違えて何度も怒鳴られ、努力はするもののなかなか思うような演奏ができないという、野暮ったいシーンが圧倒的である。

 音楽や楽器、オーケストラなどの専門知識が数多くちりばめられている本書であるが、それらは音楽のすばらしさというよりは、音楽の難解さ、ハードさを強調するために書かれているところがある。だが、そこには私たち読者をふくめた等身大の、凡人としての高校生活がたしかにある。そしてより高みを目指しながら、それでもそこに届かない数多くの凡人ぶりが、何より読者の心を打つ構造を、本書はもっている。そうした等身大の人間をもっとも象徴するのが、津島サトルの初恋の相手ともいえる南枝里子の存在だ。

 南枝里子は津島サトルとは対極の位置にあるキャラクターでもある。彼女の家はそば屋でしかないし、彼のように音楽家を目指すのに恵まれた環境にあるわけでもない。にもかかわらず、誰よりも負けず嫌いで向上心にあふれ、ヴァイオリニストとしての高みをどこまでも突き進んでいこうという強い意思をもっている。それまで自尊心を満たすという以外に目的をもたなかった津島サトルの音楽が、ここでは恋愛の媒体として機能し、彼と南枝里子を結びつけることになった。この恋愛がどのように進展し、ふたりにどのような変化をもたらすことになるのかも、本書の読みどころのひとつであるが、もうひとり忘れるわけにいかない登場人物が、普通科目である「倫理社会」の担当教師、金窪健史だ。たんに教科書どおりの授業ではなく、哲学を自分たちの身近なものとして、わかりやすく説明していく金窪健史の存在は、語り手自身も意識しているように、良くも悪くも彼の高校生活に大きな影響を与えることになった人物である。

 それまでごく狭い境界のなかでしか認識していなかった哲学や音楽が、高校の音楽科という場を通じてより広い世界へとつながっていく本書を読んでいくと、津島サトルが得た経験――けっして甘酸っぱいだけではない経験こそが、青春と呼ばれるものの大きな要素なのだということが見えてくる。本当の意味で音楽家になれるのは、じつのところほんのわずかな人たちでしかなく、大半の人たちはどうすることもできない運命によって社会のなかに埋没してしまう、ごく普通の人たちにすぎない。だが、そんな平凡な人たちへのこのうえない愛によって、本書は成り立っている。そして、そんな人間たちの思惑とは無関係に、音楽は音楽であり、哲学は哲学であるということ――その圧倒的な事実の美しさはときに、その人にとっての救いとなるということも。本書の内容を簡単に説明するのは難しいが、それでも本書の本質は、そういったものではなかろうかと思う。

 それでもそのとき、音楽は僕たちを救おうとしていた。その明るさで、その活力と律動で、そしてその美しさで音楽は、僕たちを立ち直らせようとしていた。僕たちはそんな音楽に触れた。

 人は美しいものに惹かれると金窪健史は言った。それは人が生物学的に生きていくうえでは不要なものかもしれないが、美しいものに惹かれるという心は、同時に人が人であるこのうえない証明にもなっている。たとえ、それを追い求めた結果が苦いものであったとしても、その過程には大きな意味があるのだと、本書は語っている。そのダイナミズムをぜひとも堪能してもらいたい。(2011.07.11)

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