【PHP研究所】
『去年はいい年になるだろう』

山本弘著 

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 政治家の鳩山由紀夫が、民主党の代表や内閣総理大臣だった頃にしきりに口にしていた「友愛」。もともとはフランス革命における三つのスローガン(「自由」「平等」「友愛」)のひとつであり、またキリスト教的な色合いの強いこの単語について、彼がどのような意図をもって用いているのかは今ひとつ見えにくいところがあるが、友人や兄弟間の愛情といった辞書的な意味を超えて、すべての人間がお互いを尊重し、助け合って生きていこうとする「人類愛」的な意味で用いているのであれば、その理想の高さに敬服せざるをえない。もし鳩山由紀夫が全世界の代表という立場であれば、あるいは全国民が彼のような境遇にあるなら、もっと評価されていたのかもしれない。だが、そもそもいくつもある政党の代表にすぎなかった彼が「人類愛」などという高尚な精神を説いたところで、国民は首をひねるしかないというのが本音だ。日本に住む国民の大部分が望んでいるのは、そんな高尚な理想ではなく、あくまで自分たちの国がより豊かになること、具体的には自分たちの生活がより良い方向に改善されることであって、他の国の他人の幸せになどかまってはいられない。

 むろん、博愛や人類愛といった精神を表立って否定する人間はいない。もしそんな志をいだいて生きることができれば、人間としてこれほどすばらしいことはないだろう。だが、たとえば私が多くの人の不幸を少しでも改善するために、紛争地域に出向いて地雷撤去の活動をすると言い出したら、私の両親や配偶者はきっと全力で反対するだろうと容易に想像できる。仮に、私に子どもがいたとして、同じようなことを言い出したら、きっと私も反対する。論理的にはどれだけ正しいことであっても、それだけで人間の行動が決定づけられるわけではない。もしそれができる者がいるとすれば、それはもう人間というよりは、もっと異質な何かである。

「しかし、ご安心ください。この事件は起こりませんでした。私たちガーディアンが阻止したからです」

 24世紀の未来からやってきた大量の人間型ロボットたちが、その時代に起こっていたはずの大惨事を未然に防いだばかりか、世界中の軍事基地やテロリストのアジトを制圧、あらゆる兵器を一掃して戦争そのものをできないようにする――今回紹介する本書『去年はいい年になるだろう』は、タイムトラベル、ロボット、パラレルワールドといった SF的要素を多分に含みながらも、私たちがよく知る現代を舞台とする作品であるが、じつのところそのメインとなるテーマは、異星人とのファーストコンタクト的なものだと言うことができる。本書においては、異星人の代わりに未来からタイムトラベルしてきたロボット、より具体的には、一人称の語り手である「僕」こと山本弘のもとにAQとして接触してきたガーディアン・カイラ211ということになるのだが、自分たち人間とはまったく異なる価値観や考え方、意思をもつ存在との交流によって起こりうる悲喜劇という意味で、両者は共通するものを有している。

 ガーディアンたちが語り手のいる世界にやってきたのは2001年9月11日、本来の歴史では、世界同時多発テロという未曾有の事件によって大勢の死傷者が出たばかりか、その後連鎖的に続いていくテロやその報復への引き金ともなったのだが、その悲劇はガーディアンたちによって未然に防がれた。彼らはけっして人間を傷つけるようなことはしない。高度な科学技術によって軍事兵器を無力化し、また爆弾の爆発にも耐えられる体をもつ彼らは、その圧倒的な力を、ひたすら人類への貢献のために使おうとする。未来のテクノロジーを先進国の企業に提供し資金援助を募り、その資金で貧困地域への食料や医療援助を積極的に行ない、独裁政権を解体し、戦争や紛争を根絶やしにする――そんな彼らの姿は、まさに博愛精神にあふれた人間の理想のように映る。しかも、ガーディアンたちは一度過去にタイムトラベルすると、その時代に10年間滞在したのち、ふたたび過去に――今度は一年前の2000年にタイムトラベルするということを、えんえんと繰り返していくという。

 私たちはこの世界から惨劇を一掃したいのです。戦争や飢えや災害や犯罪で死ぬ人をなくしたいのです。無辜の人々が傷つけられることのない世界――それが私たちの理想です。

 そんなガーディアンたちの、いっけんすると人類のためにこれ以上ないほどの貢献をつづける意図が何なのか、そしてその結果としてどのようなことが起こるのかは、じっさいに本書を読んでたしかめてもらうとして、私がこの作品を読み終えてまず思い浮かべたのは、かつてキリスト教徒たちが、未開の土地の住民たちに対して行なった布教活動だ。彼らはそれまで連綿とつづいてきた土着の信仰や文化を否定し、キリスト教と西欧の文明をむやみに持ち込んだ。より衛生的な環境と教育を施すため、部族から無理やり子どもたちを奪い取り、修道院で生活させるといった犯罪まがいのことすらやってきたのだが、べつに彼らに悪意があったわけではない。純粋に人類の救済のため、キリスト教の布教が正義であるという信念が彼らを突き動かしていたわけだが、そんな彼らの行動は、ガーディアンたちのそれと驚くほど類似している。

 自分たちが正しいことをしているという揺るがない信念による行動ほど、やっかいなものはない。じっさい、語り手はカイラの語るガーディアンの、きわめて論理的で、そしてそれゆえに強固な信念に対して、どうしても反論することができないし、反論の余地もない。しかも彼らは、自分たちが完璧ではない――自分たちの活動が、ある特定の人たちの人生をより悪い方向に変えてしまうこともあると自覚していながら、それでも過去へのタイムトラベルをやめようとはしない。語り手はそもそもSF作家という立場もあって、ガーディアンの存在に寛容なところもあるのだが、それでも自分のこれからの創作活動において、大きな影響をおよぼすことは避けられない。

 ガーディアンとの接触が本書のメインテーマとなりうるのは、彼らがある意味で異星人という属性をもつからに他ならないが、じつはもうひとつ、パラレルワールドの自分自身という存在も、物語の大きな鍵となっている。ガーディアンたちは、過去へのタイムトラベルのさい、人々から自分宛のメッセージを募っており、語り手もまた数人の未来の自分からメッセージや、未来の自分が書くはずの著作を受け取るのだが、同じ自分自身であるにもかかわらず、彼らの行為の意図がわからないばかりか、なぜこんな余計なことをするのかと苦悩する。

 良かれと思ってしたことが裏目に出てしまうというのは、人生においてまま起こりえることであるが、本書はそうした要素のオンパレードであり、それは他ならぬSF的要素があるからこそ発揮されるものばかりである。わけのわからないもの、わけのわからない事柄というのは、SFになくてはならないものであるが、その要素ゆえに人間という存在が際立っていくのは、大きく評価されるべき点だ。はたしてあなたは、本書に書かれている人間という存在に、どのような感想をいだくことになるのだろうか。(2011.02.18)

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