【新潮社】
『千年の祈り』

イーユン・リー著/篠森ゆりこ訳 



 正しいと信じてやってきたことが、結果として正反対の事象を引き起こしてしまうというのは、人の世の中においては往々にしてありえてしまうことであり、だからこそ人生というのはままならないものだと思わずにはいられなかったりする。ある犯罪の被害者であったはずの人が、まさに被害者であるという理由で、別の方面において容易に加害者の立場になってしまったり、子育てにおいて子どもを可愛がろうとかまえばかまうほど、子どものほうが妙に親と距離を置いてしまったり――だが、だからといって自分の気持ちを押さえつけ、何もしないままでいられるほど、人の心は合理的なわけでもないし、ともあれ何か行動を起こさなければ、それこそ何もはじまらず、また何も伝えることができない。

 自分はこんなに悩み苦しんでいるのに、なぜ他の人たちは私の気持ちをわかってはくれないのか、自分はこんなに相手のことを愛しているのに、なぜ相手はその想いに応えてくれないのか――人が誰かのために何らかの行動をとるときに、そこに真の意味で相手のことを思う気持ちがどの程度あるのか、というのは、考えれば考えるほど難しいものとなっていく気がして仕方がない。人はけっきょくのところひとりきりであり、どんな言動も究極的には自分自身の主観的判断からは逃れられない、と結論づけるのは簡単だが、誰かを大切に思う気持ちや、誰かを愛する想いがすべて自己愛だと認めてしまうのは、人としてあまりに虚しい。本書『千年の祈り』は、表題作をふくむ十の短編を収めた作品集であるが、そこに書かれているのはいずれも、たとえば人と人との関係におけるままならなさであったり、かならずしも思い描いた人生を歩んでいくことができない哀しさであったり、あるいは世の中の理不尽さであったりする。だが、そうした結末は、けっして彼らの思いが利己的なものだったから、というわけではない。

 しかし、まさかこのよい結果が結婚生活を楽しくしてくれるどころか、妻を遠い存在にするとは思わなかった。人生を出し抜けるなどと考える、そんなあやまちを二度もおかすとはなんと傲慢だったのだろう。(『黄昏』より)

 上記引用元である『黄昏』には、二組の熟年夫婦が登場する。蘇(スウ)夫妻と方(ホアン)夫妻――夫ふたりのほうは、株式の売買を通じて知り合い、純粋な友情をはぐくんでいるが、妻のほうはお互いに直接面識はないものの、方夫人のほうが一方的に電話をかけ、それを蘇夫人が受けて話を訊くという関係がつづいている。

 この二組の夫婦の、夫婦どうしの仲は、かならずしも良好なものとは言えない。方夫人は夫が浮気をしているのではないかと疑っており、結果としてそれが事実であることを知るのだが、蘇夫婦のほうの原因は、重度の障害を負って生まれてきた娘の存在にあった。娘への愛に偽りはない。だが、おそらく死ぬまでさまざまな世話で手が離せない娘の存在を、なかば運命として受け入れて生きていこうとする妻に対して、夫のほうはもうひとり子どもを――障害児ではない子どもを――つくることで、より健全な、普通の家庭を取り戻すことができるのでは、という思いにとらわれ、それを実行に移してしまう。

 方氏が不倫に走ってしまうのも、蘇氏がごく普通の家庭の幸せを求めてしまうのも、現状をより良いものにしていきたい、という人間としてあたり前の欲求のひとつだ。だが、そのいっぽうで蘇夫人のように、今あるものをあるがままに受け入れていくことを良しとする心理がある。そうしたふたつの心のありようは、あるいは西洋的、東洋的とカテゴライズされ、北京で生まれアメリカに在住している著者がかかえている文化的二重性にもつながっているのかもしれない。そしてそうした二重性のジレンマ、どちらがより良いことなのか、あるいは正しいことなのか、という迷いは、そのままこの短編集に登場する人物たちにも引き継がれている。

 たとえば『市場の約束』に登場する三三(サンサン)は、町の師範学校で英語を教えている独身女性であるが、彼女のなかにはかつて想い人であった土(トウ)がいた。彼女が結婚しないのはそのせいだと彼女の母は思っていたのだが、その土が離婚し、三三とよりを戻したいという話を母親から聞かされても、彼女はその話を拒否してしまう。彼が結婚し、そして離婚した女性は三三の親友でもあり、その結婚話――旻(ミン)を海外へ逃すための偽装結婚――は他ならぬ彼女自身の発案でもあったのだ。手段を選ばず想い人と結ばれるという選択と、結果としてふたりに裏切られた形となった運命を、そのまま受け入れていこうとする選択肢があるとして、自身の幸福、自身の正直な気持ちを考えるなら、迷うことなく前者をとるべきであるし、それがいかにも西洋の合理的ものの考え方でもあるのだが、何より一度口に出した約束を守るというある種の高潔さが、逆に彼女の自由を束縛する枷となってしまっている状況がそこにある。

 結婚して新たな家庭をもち、一族の血を後世に継いでいくことと、あくまで個人として大切なものを優先していくこと――『市場の約束』にしろ、ゲイであるがゆえに父親になるという選択をせずにいる息子と、そんな家族の境遇を受け入れるのに宗教の力を借りる母親との関係を描いた『息子』にしろ、不倫がもとで離婚してしまった娘と、そんな娘のことが気がかりで娘の住むアメリカにやってくる父親との関係を描いた表題作『千年の祈り』にしろ、世代の違う者どうしの考え方の違いというのは、どこの時代、どこの国においても普遍的なテーマであるが、これらの短編においてひとつ顕著なのは、登場人物たちの人生を狂わせ、翻弄する要因として、文化大革命をはじめとする中国国家の多分に独裁的な政策が大きく影響しているという点がある。

 およそ人間の個としてのあらゆる権利を剥奪していくような、かつての共産主義国家の政策については、たとえばユン・チアンの『ワイルド・スワン』、あるいは米原万理の小説『オリガ・モリソヴナの反語法』などにも詳しいが、本書に登場する人たちの、理不尽な出来事にたいして反発すべきなのか、あるいは黙って受け入れるべきなのか、という迷いは、個はもちろん、家族という単位よりも強大なものによって、極度に抑圧されてきた国の人々が、たとえば個としてもつべき自由とはどういうものなのか、という問いを考えるときの困惑にも似たところがある。

 そうした、個になりきれない個人、ある集団のなかの一員としての個というものを強く感じさせる短編として、『不滅』と『柿たち』の二作があるが、これは人称として「わたしたち」「わたしら」という複数形が用いられているというのが大きな特長だ。この二作品については、ある共同体としての主体から、ある意味で突出した個人の物語を浮かび上がらせることをテーマとしているが、けっしてある集団の枠のなかに収まりきれない人物の数奇な運命を愚かだと思ういっぽうで、そうした傑出した「個」となりえない自身の、一抹の寂しさもまたきちんと描かれている。

 個としての自分と、集団のなかの一員としての自分。運命に抗うことと、運命を受け入れること――そのどちらが人としてより良い生き方なのか、という模索は、本書のなかではっきりとした結論が書かれているわけではないし、また今後も執筆活動をとおして続けられていくのだろう。だが、たとえば『あまりもの』の林(リン)ばあさんの、長い独身生活の末に巡ってきた儚い初恋の話の顛末や、『千年の祈り』における石(シー)氏の、イラン人女性との交流の様子を見るかぎりにおいて、個人が個人であることの選択にほんのわずかな希望が添えられている。ある行動に対して、かならずしもそれに見合うだけの結果が返ってくるわけではない。だが、そのある種理不尽な結果は、私たちが思っているほどひどいものではないのかもしれない――そんなふうに思わせるものが、この短編集のなかにはたしかにある。(2007.11.02)

ホームへ