【講談社】
『グッドラックららばい』

平安寿子著 



 家族のあるべき形がどのようなものなのか、というのは、小説の主要なテーマのひとつである。なぜなら、小説とは他ならぬ人間を描くものであり、物心ついた人間が最初に属することになる単位が家族である以上、人間を描くことはその家族を描くことにもつながっていくからである。私がインターネット上で小説を書評するようになって、家族という単位のありかたについて意識させられるようになったのは、柳美里の『家族シネマ』あたりからであるが、最近読んだ小説のなかにも、既存のあるべき家族の形にあてはめることのできない家族――たとえば、血のつながりはあるが、両親の離婚によって別々に暮らしている親子の関係や、逆に血のつながりはないのに、まるで父親か母親のように同居している人たちの関係を物語のテーマとして取り込んでいるものを多く見かけるようになっている。

 父親がいて、母親がいて、その子どもたちが同じ家のなかで生活を営んでいる――私たちは知らず知らずのうちに、そうした家族の形が正しいもの、普通にそうなるべきものだという意識をもってしまっている。父親がいなかったり、母親がいなかったりするのは、何か特殊な事情があるからで、それは本来あるべき家族の形ではないマイノリティだ、という意識が、はたしてどのようにして私たちのなかに刷り込まれていったのかはさだかではないが、そもそも人間ひとりひとりにさえ個性というものがあって、誰もが少なからず異なった部分をもっているのに、その個性の集合である家族の形が、たったひとつの形しかもちえないというのは、よくよく考えてみればおかしなことではある。そしてそんなとき、私たちはあらためて「家族」とは何なのか、ということを考えずにはいられなくなる。世間一般が押しつけてくる家族の形におさまることのない「家族」――たとえ、みんながてんでバラバラであったとしても、なお自分たちが家族であるという何かがあるとすれば、それはどのような形をしているものなのだろうか、と。

 離れてしまったら夫婦じゃなくなるのか? 一緒に暮らさないと、家族は家族でなくなるのか? 家族の絆って、そんな物理的なことに左右されるような、もろいものなのか?

 本書『グッドラックららばい』の内容をものすごく大雑把に要約してしまうと、片岡家の母親がある日突然家出して、20年経って何事もなかったかのように戻ってくる、という話であり、つまりは母親である鷹子が不在のあいだの片岡家の様子と、そのあいだ彼女がどこで何をしていたのかということを描いた物語、ということになる。そして、これが本書の面白いところであるが、母親が抜けた片岡家は、しかし母親がいないままに、それぞれの日々の生活に大きな支障をきたすこともなく、それなりに家族として機能してしまっているのである。

 夫である信也の会社に、あまり要領の得ない電話を一本入れたきり、まるで近所に買い物にでも行くかのように家を出てしまった鷹子――だが、信也は誘拐とかいった事件性がなさそうだと判断すると、いずれ戻ってくるだろうとまったく根拠のない信頼をよせて泰然としているし、積子は積子で、ろくでもない男との逢瀬に余念がない。下の娘である立子はそんないい加減な母親に憤りはするものの、いかにも貧乏臭い片岡家を一刻も早く抜け出し、玉の輿に乗って上流社会の仲間入りをするという大いなる野望に燃えていて、家族のことを顧みない。つまり、それぞれが思いたいことを思い、それぞれがやりたいことをやっているのだ。

 見方によっては誰もがこのうえなく自分勝手で、家族としてはすでにバラバラになっているとさえいえる片岡家であるが、にもかかわらず、作品のなかにまったくもって重苦しい雰囲気が見られないのは、片岡家の人たちが、そんなお互いの自分勝手なところを、そういうものとして了解してしまっているところがあるからに他ならない。これは、片岡家の家族に属している者と、そうでない者とのあいだに横たわる、決定的な差異として突出した部分であり、そうした差を強調する方法として、本書は片岡家の人間だけでなく、その周囲にいる多くの人たちを主体として巻き込んで、それぞれ多角的な視点でもって片岡家という「家族」の形を浮き彫りにしていこうと試みているところがある。だが、どれだけ多くの登場人物の視点を借りたとしても、その本質にあるのは「片岡家」に属しているか、そうでないかの区別でしかない。

 たとえば、信也の姉である佐代子は、鷹子が出て行った当初から片岡家にかかわり、何やかやと彼らの世話役を買って出た人であるが、「手に負えない出来事にぶつかったら、なかったことにしてしまう」という信也の性格をかなり正確にとらえていながら、そんな彼を置いて出て行った鷹子については、当初は「男をつくって駆け落ちした」という通り一遍な発想しかすることができなかった。なぜ、そうした発想が出てくるのかと言えば、それが世間一般的に納得のできる答えであるからであり、妻の家出、それも、今の夫や家族が嫌になったとか、別の男と不倫したとかいった理由もないのに、ふらっと家を出てしまう鷹子という女性のわけのわからなさに対して、とにかく何でもいいから納得のいく理由づけをせずにはいられない、という人間特有の心理がある。

 だが、鷹子のわけのわからなさは、長年彼女と家族として生活をともにしてきた片岡家の人たちにとっては、およそ母親らしくない母親というひとつの個性として認識されてしまっているところがある。だからこそ信也や積子は、鷹子が男と逃げたという情報にたいして違和感しか覚えない。立子にいたっては、「ふしだらな主婦に捨てられた家族」という役どころに、自身を不幸なヒロインとして投影して自己満足にふけりはするものの、そのことを本気で信じているとも思えないのだ。

 私たちは多かれ少なかれ世間体というものを気にして生きているところがある。いわゆる「普通の人ならこうあるべきだ」という常識ともいうべきものであるが、その基準はいったいどこから出てきたものなのだろうか。そういう意味で、片岡家の人たちに世間体というものはない。そしてそれは、片岡家の外にいる人たちにとってはともすると非常識めいたもののように見えるのだが、どこまでも自分のやりたいように生きている片岡家の人たちは、だからこそ容易なことでは変わらない、世間体という曖昧なものには流されないという強さをもっている。世間が何を言い、自分たちのことをどんなふうに思っていようとまったく気にかけない、という点でこのうえなく結束している彼らの飄々とした生き方は、ともすると世間体に流されてしまいがちな私たちにとってある種の羨望さえともなうものでもある。

 世の中、難しく考えることはない。生命さえあれば、偶然ぽろりと落ちた土の上で咲けるのよ。春の畑にはびこる蓮華みたいに。――(中略)――わたしは世の中とうまくやれる。もっともっと、自分の持ち場を広げていける。

 いろいろな人に利用されているように見えながら、けっして自分のペースというものを崩さない信也、自身の野望を実現するためにひた走り、文字どおり天国と地獄を経験しながらも、それでもなお走ることをやめずにいる立子、そして相変わらずだらしない男との逢瀬を楽しみながら、結婚もせずに職を転々としている積子に、たまに年賀状やおみやげを送ってはくるものの、いっこうに戻ってくることのない鷹子――世間一般の家族の形からはみ出していることなど意に介さない片岡家の、そのたくましくもユーモラスな生き方を、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2009.01.31)

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