【文藝春秋】
『こんな日本でよかったね』
−構造主義的日本論−

内田樹著 



 ずいぶん以前の話になるが、ネット上で知り合ったある方が、私のサイトにアップしてある書評について、「まぎれもない自分自身」という文章がキーワードになっている、というようなことをおっしゃっていた。

 たしかに自分の書評を読み返してみると、そうした文章がじつによく出てきている。他の誰でもない、まぎれもない自分自身――今にして思えば、私が小説という媒体に求めていたのは、「まぎれもない自分自身」を描いている、あるいは描こうとしている「他者」と接触したいという欲求だ。そしてその背景には、現在「八方美人男」を名乗っている私が私でありつづけるためのまぎれもなさ、確固たる足場がほしいという欲求がある。

 自分という人間が、自分で思っているほど信用できる存在ではない、という思いは、ずいぶんと長く私のなかにわだかまってきた問題のひとつである。というか、今もわだかまりつづけている。絶対的に信用ならない自分自身というのは、私を底知れぬ不安に陥らせる。何しろ自分が信用できないのだ。明日の自分が今日の自分を裏切るかもしれないというのに、いったい何を信用して生きていけばいいのか? その回答を求めて、私はこれまで数多くの小説を読み続けてきたような気さえするのだが、けっして短いわけではないこれまでの読書遍歴の末にわかったのは、「まぎれもない自分自身」なんてものはない、ということだった。本書『こんな日本でよかったね』を読んで、ようやくそのことに納得がいった、と言ってもいい。

 構造主義は時間の広がりと深みを重んじます。
 私とは違う時間の中に生きている人に世界はどのように見えているのか私にはよくわからないという謙抑的な知性が構造主義者を特徴づけています。

 そのサブタイトルに「構造主義的日本論」とあって、なんだか哲学めいたお堅いイメージがあるのに、メインのタイトルが『こんな日本でよかったね』。なんともちぐはぐな印象を受ける本書は、著者がアップしているブログの文章を「教育」「家族」「国家」といったトピックでまとめたものであるが、そこに書かれている諸々を支えている一貫した思想としてあるのが構造主義というものである。

 本書について書くことがあるとすれば、ただそれだけだと言える。

 構造主義とは現代思想の一形態で、今の私の理解の範囲内で説明すると、「まぎれもない自分自身」などとというものはない、ということに集約される。

 たとえばこのサイトには、私が本を読んで書いた書評がある。この書評はたしかに八方美人男と名乗る「私」が書いたものであるが、では一年後に同じ本を読んで、まったく同じ書評を書くのかと言えば、答えはおそらく「ノー」だ。なぜなら一年後の私は、今の私とまったく同じというわけではないからだ。いろいろな本を読んでいるだろうし、いろいろな経験を経てきてもいるだろう。その結果、一年前とは違った何かをその本に見出すということも、ありえない話ではない。

 では一秒後はどうだろう。書評を書きあげた一秒後の私は、まったく同じ書評を書くだろうか。たぶん、これも「ノー」と言わざるを得ない。ほとんど同じかもしれないが、やはりどこか違う書評を書くだろうと推測する。その根拠を説明するためには、書評を書評という形にしている言葉について言及しなければならない。

 ある本を読んでいるときに、私の頭のなかではじつにいろいろな考えや感想や思いといったものが渦巻いている。私が「書評」としてこのサイトにアップしたものは、じつはそのごく一部分でしかない。逆に言えば、言葉によって言語化されたものだけが「私」という個の書いた書評であり、それ以外の諸々は取りこぼされていることになる。私には以前から、この取りこぼされたものが、本当に取りこぼされたままでいいのか、という疑問があり、それらをすべて包括できるような書評を書くことができないかと思っていたのだが、それは事実上不可能だ。

 ここで逆転の発想が生まれる。つまり言語化することによって、はじめて「私」という個は、自分が読んだ本についてこんなふうに感じとっていたのだと明確化される、というものだ。まず最初に「まぎれもない自分自身」というものがあって、そこから書評が生み出されてきたわけではない。言語という「構造」が、私の書いた書評として定義された、という考え方である。これを構造主義という。

 もし「まぎれもない自分自身」というものが本当に存在するとしたら、一年後はおろか、未来永劫私はまったく同じ書評を書くということになるわけだが、それだけは絶対にありえないことを私は感覚的に知っている。どれだけ完璧な書評を書いたと思っても、次の瞬間にはその思いは揺らいでしまう。こんな体験を、私はここ十数年ずっと繰り返してきた。どこかで妥協点を見つけ、私の書いた書評としてサイトにアップするという、ある意味で不完全な行為―― 一年後はおろか、一秒後の自分さえ、今とは異なる書評を書くかもしれないという「揺らぎ」のなかにしか、自分というものは存在しえないということを、本書は手を変え品を変えて説明している。

 さきほど、「まぎれもない自分自身」などというものはない、と断言した。だがじっさいには、「自分」というものは定義されている。戸籍上の「私」はたしかにこの社会に存在するし、私を「私」と認識することができる。眠りについて、目が覚めたときに、自分が連続していることを意識できている。もしそうでなかったとしたら、所有という概念は崩壊し、社会秩序は意味をなさなくなってしまう。だから、こんなふうに言い換えることもできる。「まぎれもない自分自身」などというものはない。あるのはただ無数の「構造」だけであり、私を「私」と定義する無数の構造上の「揺らぎ」のなかにこそ、私という概念が偏在するのだ、と。

 本書を読み進めていくとわかるのだが、おそらく著者ほど構造主義的な考え方を自身の生活のなかで実践できている人はいない。「まぎれもない自分自身」などというものはない。だが、それはあくまで出発点であって、けっして結論ではない。では「まぎれもない自分自身」とはいったい何なのか、という疑問がそこからかならず発生しなければならないのだ。その問いを発しつづけることによってしか、自分が自分でありつづけることはできないのだと、本書は語っている。

「まぎれもない自分自身」などというものはない。それはこのうえなく理不尽なことではあるが、その理不尽さを感じなくなれば、私という無数の「構造」のはざまで揺らぐ自分自身は完全に消滅してしまう。だから、とりあえずはそれでかまわないのだ、という出発点は、今の私にとってはこのうえない福音である。(2012.05.11)

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