【新潮社】
『ゴールドラッシュ』

柳美里著 
木山捷平文学賞受賞作 



 ちょっとした昔話になるが、私は小さい頃、何度か捨て犬や捨て猫を拾ってきたことがある。もちろん家で飼ってやりたいと思って拾ってきたわけだが、その度に両親に反対され、けっきょく彼らが我が家の家族の一員になることは最後までなかった。自分が子どもであること――両親という権力のある大人に逆らえない子どもであることを思い知らされた私は、その時は早く大人になりたい、と真剣に願ったものだったが、あれから年月が過ぎ、法律的にも大人と認められ、あたり前のように煙草を喫ったり酒を飲んだりできる年齢となった今、はたして自分は本当に大人になったのだろうか、とふと考える。
 大人って、いったい何なのだろう――未成熟で自分勝手な大人、自分自身の行動に対してさえ責任をとろうとしない大人が少なからず存在するこの世の中で、真の大人のあるべき姿を、いったい誰に求めたらいいのだろう……。本書『ゴールドラッシュ』を読んでいると、そんな心の叫びとも言える声が聞こえてきそうな気がする。

 本書に登場する十四歳の少年にとって、少なくとも両親は、真の大人のあるべき姿として映っていなかったことは確かだ。暴力と金の力ですべてを解決しようとし、自分の子どもたちと真正面から向き合おうとしない父親、子どもたちを育てることを放棄し、新興宗教に走ってしまった母親――幼い頃から両親の愛情ではなく、ありあまっている金によって育てられたとさえ言える少年は、平気で学校をサボり、煙草を喫い、仲間とつるんで女子高生を強姦し、さらにコカインにまで手を染める問題児となっていた。だがその一方で少年は、ウィリアムズ病の兄の幸樹や援助交際に走る長女の美歩、また自殺した家政婦の娘である響子や、歓楽街で飲食店を経営する老夫婦など、弱い者たちを守ってやりたい、という気持ちを持ち合わせてもいる。
 大人に対して必要以上に高飛車に接し、突然犬をゴルフクラブで殴り殺したりする一方、そんな大人たちの予想もしない反撃に遭うとたちまちすくみあがってしまう少年の心は、安定することを望みながらも常にぐらぐらと揺れ動きつづける。そして、そんな不安定な心をコントロールすることができないまま、ある日、衝動に駆られて父親を殺してしまう。

 オイディプス王の例を挙げるまでもなく、「父親殺し」というのは昔からよく使われてきたテーマではあるが、はたして少年は父親を殺すことによって、父親を超えることができたのだろうか。

 父親を殺した少年は、あくまで権力者=金のある者という構図から離れることができないまま、かつては父親のものであったパチンコチェーンの総支配人として、また兄や姉などの保護者として君臨しようと努力するが、そもそも社会のことなど何もわからない、たった十四年しか生きていない少年に、そのような大役が務まるはずもない。自分がこれまで馬鹿だと見下してきた世の大人たち――だが、自分が一人では何もできない無力な子どもでしかないのだ、ということを痛烈に理解したとき、少年は、自分が殺した父親には見出すことができなかった、真の大人のあるべき姿を捜し求めることになる。

 たしかに自分はただの一度もひとを信じることができなかった。子どものころは安田や金本や金閣の老夫婦を信じていたのかもしれない。でもそれも七、八歳のころまでだ。いまとなってはどうすれば信じることができるのか、信じるということがどういう感情なのかさえ理解することができない、わからないのだ。ひとを信じる、ひとを殺す、どちらもよく似ている気がする。ひととひとが強く結び合う、強く結び過ぎて切れる、切る。なぜそれほどまでに他者を必要としなければならないのだろう。

 ひとを信じる――言葉にするのは簡単だが、実行するのは並大抵のことではない。ひとを信じるためには、まず自分自身を信じなければならない。だが、自分を信じることを教えられなかった者は、いったいどうやって自分を信じる術を身につけるのだろう。今はただ、自分自身すら信じることができない少年が、少しでも早く自分を取り戻してくれる日が来ることを願うばかりだ。(1999.06.08)

ホームへ