【文藝春秋】
『後日の話』

河野多惠子著 



 夫に先立たれてしまった妻のことを指す「未亡人」という言葉に、あるいは反感を覚える女性もいらっしゃることと思う。「妻は夫と生死をともにすべきである」――その言葉の裏側にある、およそ女性個人の意志を無視するかのような男尊女卑の思想こそが、女性に反感をいだかせる大きな要因であることは言うまでもないことだが、現実問題として、死んだ夫の後を追った妻、というのは、過去においていったいどのくらい存在したのだろうか。無理心中の話はよく聞く。現世に絶望した恋人たちが、あの世で結ばれようと死を選ぶ、という話もある。有名タレントの死を嘆き、後追い自殺をしたファンもいる。だが、未亡人が未亡人でなくなるためだけに死を選ぶ、という話は、あるいは私が無知なだけなのかもしれないが、あまり聞いたことがないように思うのだ。

 その夫婦のあいだに子どもがいれば、当然のその子どもの世話はどうするのか、という問題に縛られてしまうだろう。だが、たとえそうでなかったとしても、死んだ人のために死ぬよりは、死んだ人の分まで生きる、という考え方のほうが、少なくとも戦後生まれの私にとっては受け入れやすいものがあるのは確かだ。死んだ夫の後を追う――それは美談というよりも、むしろ異常な心理状態にある、と言うべきではないだろうか。

 十七世紀のトスカーナ地方のさる小都市国家で、結婚生活二年にして、思いもかけぬ出来事から処刑されることになった夫に、最後の別れで鼻を噛み切られ、その後を人々の口の端にのぼりながら生きた、一女性についての話である。

 本書『後日の話』の冒頭は、上の一文からはじまる。恐ろしくインパクトのある文章だ。本書の内容についてこれ以上はない、と思えるほど的確に要約していながら、同時に読者の興味と想像力をかきたてずにはいられない要素をもきちんと押さえている。この女性の夫は、何の罪で処刑されたのか、なぜ妻の鼻を噛み切らねばならなかったのか、そしてその後、妻は欠けた鼻を抱えてどのように生きていったのか――おそらく、今この書評をお読みの皆様が抱いているであろうさまざまな憶測と好奇心にさらされて生きることになった一女性の話、それが本書であるが、「後日の話」というタイトルからもわかるように、本書が重要視しているのは、鼻を噛み切られた「原因」ではなく、その「結果」にこそある。

 人の一生は、その大半がごく平凡な日常の積み重ねであるのだが、どんな人にも必ずひとつやふたつは大きな出来事、ターニングポイントと言うべき点を、自身の時間軸に穿つことができるものだ。そしてある人物のことについて語るとき、平凡な日常を淡々と語るよりも、そうした一点を中心に語る場合が多い。たとえば「結婚」というイベント。この一点を中心に据えたとき、当然のことながら時間の流れは結婚「以前」と「以後」に区切ることができる。すなわち「ふたりはどのようにして出会い、結婚にいたったのか」ということと、「ふたりは結婚して、どのように変わっていったのか」という前後の流れである。使い古された言葉ではあるが、結婚はゴールインではなく新たなスタートだ、というのは、その後につづくであろういくつのかイベントが、基本的には「結婚」という一点から生じてくる、という点では、まさに的を射た表現である。

 本書の主人公、蜜蝋をあつかうナルディ商会のエレナについて言えば、麦藁帽子業者カタラーニ家の長男ジャコモとの結婚こそが、ターニングポイントとなるはずだった。だが、その点は結婚二年目に起こってしまった、より大きなターニングポイントによってかすんでしまう。そう、本人の意思とはまったく関係ない力学によって――夫が引き起こした殺人、それにつづく処刑、そしてその夫に鼻を噛み切られるという、あまりにも衝撃的な事件によって、彼女の人生は大きく歪められてしまったと言っていいだろう。

 いったい、不条理なできごとによって歪められた人生を背負わされた人間は、どうやってその一点に穿たれた大きな穴から這い出し、ふたたび自身の時間を動かしていくものなのだろうか。欠けてしまった鼻はけっして元には戻らない。夫の犯した罪は、けっして取り消すことはできない。しかも、その張本人であるジャコモは、けっして生き返ることはない。エレナの家族やジャコモの家族たちがそれぞれに衝撃を受けながらも、つづけなければならない生活をなんとかつづけ、けっして元通りにはならないものの、それなりの日常というものを再構築していくなかで、エレナのジャコモに対する気持ちがどう変化していったのか――そのあたりの心情について推察するのは難しいのだが、ひとつだけわかることがあるとすれば、エレナが彼女なりにジャコモのことを忘れないようにしようとしている、ということだろう。

 エレナの鼻を噛み切った理由として、ジャコモは次のように述べている。

「妻はあのように何とも言えず人眼を惹きます。僕がいなくなれば、言い寄る連中があるに決まっています。僕は妻にずっと僕のことだけを忘れずにいて欲しかったのです。遺してゆかねばならない以上、ああするしか仕方がなかったのです。――」

 おそらくこの言葉は、直接ではないにしろエレナの耳に届いているはずである。そして彼のその願いは、ある意味で叶えられたと言えるだろう。事実、エレナはことあるごとに――おそらくは欠けた鼻を意識するたびに――ジャコモのことを思い出そうとしているのだから。だが、肝心のジャコモの容貌を思い出すよすがとなるものが、エレナにはほとんど残されていない。結果として、エレナの想像のなかのジャコモが、次第に膨れ上がっていくことになる。現実に生きてエレナと生活していた、気難しいところのあった元のジャコモの姿は次第にかすんでいき、代わりに処刑が赦されたあとのジャコモとの生活を夢想し、胸像をつくって話しかけたりする。じつに何気ない筆致で書かれてはいるのだが、エレナの心情がどこか現実離れしたところを漂っているのが少しずつ見えてきて、どことない違和感を読者に突きつけていく。

まるで、歪められた人生のように、欠けてしまった鼻のように、再構築されていく空想上のジャコモ――けっして元には戻らないものを、あえて元通りにしようとするエレナの妄想が、はたして愛と言えるものなのかどうか、私には判断がつかない。だが、そうした妄想が、ときにキリスト教の神や信仰といったものと対比されるかのように書かれているところは興味深いところではある。そして事実、本書のなかでエレナが最終的にたどったであろう結末を思うとき、私たちはどうしても、エレナが抱いたジャコモへの愛の形と、信者たちによる神への愛の形について、思いをめぐらさずにはいられなくなる。

 歴史を信じるならば、かつてキリストは罪人として処刑された。しかし、その後どうなったのかと言えば、世界的な宗教の救世主として美化され、多くの信仰を集める存在となった。罪人が救世主となる過程において、はたしてどれだけの人間の信仰が必要だったのだろうか。そしてその信仰は、あるいはエレナの抱いた妄想と、じつは紙一重のところにあったのではないか、という気がしてならない。
 はたしてあなたは、本書にどのような感想を抱くのだろうか。(2002.09.01)

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