【新潮社】
『午後の曳航』

三島由紀夫著 



 この世に完璧なものなど何ひとつないし、それと同じくらい私たち自身の存在もまた不完全なものだと断言するのは簡単であるが、実際問題として私たちはこの世に生を受け、受けた以上はこの不完全で欺瞞に満ちた世界を生きていかなければならない運命をかかえている。そして私たちの大半は、現実としてそれを受け入れ――意識するしないは別として――生きているわけであるが、もしこの世に完璧なものはなく、今後求めてもけっして得られないのだとするなら、不完全なままで生きつづけることに何の意味があるのだろうか。そんなふうに考える人がいたとしても、それはさほど不思議なことではない。

 完璧さを追い求めることは、ある意味危険なことでもある。なぜなら、どうあがいても不完全な肉体しかもちえない私たちにとって、完璧さはしばしば死という究極と直結しかねないものであるからだ。たとえば、私たちが生きていくためには食べ物を摂取して、それをエネルギーに変えていかなければならない。だが、不完全な私たちの肉体は摂取した物質を100%エネルギーに変えることはできず、残ったものを排泄物として吐き出す必要がある。排泄物というのは、けっして美しいものではない。美しいもの、完璧なものを求める心は、いつか必ず自身の不完全さという対極と正面からぶつかることになる。

 生きるためには食べなければならない。だが食べることは、人間が糞袋であることを自覚する行為でもある。生きるということの不完全さを否定するなら、残された道は死しかない――なるほど、三島由紀夫という人物の作品に常にまとわりつく生と死の影は、完全さと不完全さとの二律背反によってどうしようもなく立ち上がってくるものでもあるのだ。

 本書『午後の曳航』には、基本的にふたつの世界がある。ひとつは十三歳の少年である黒田登の世界、もうひとつは二等航海士の青年、塚崎竜二の世界である。登は八歳のときに父親を失くし、今は母親の房子と家政婦のいる家で暮らしている。いわゆる母子家庭であるが、房子が経営している船来ものの服飾店が好調なこともあって、比較的裕福な生活をしている。だが、登のもつ世界が象徴しているのは、不自由な世界、束縛の世界であり、それは、彼の寝室が就寝時には外から鍵がかけられる、という本書冒頭のシーンによっても物語られている。

 子どもというのは基本的に親の保護下にあり、それゆえに普遍的にいくつもの自由を制限される身分である。だが、登がその部屋で偶然発見した、隣の母親の寝室に通じる小さなのぞき穴が、彼の境遇を一変させる。母親の房子と、船乗りである塚崎竜二との情事の光景――それは、外から鍵をかけられ、閉じ込められた部屋を「誰の邪魔も入らない安全な場所」に変え、のぞき見る以上のことは何ひとつできない状況下における、陸=地上のあらゆる秩序から解き放たれた存在でもある船乗りとの情事を、登がこのうえなく憧れつつもけっして手の届かないものと思われていた、美しいもの、完璧なものの象徴としてとらえることになったのである。

 月、海の熱風、汗、香水、熟し切った男と女のあらわな肉体、航海の痕跡、世界の港々の記憶の痕跡、その世界へ向けられた小さな息苦しい覗き穴、少年の硬い心――(中略)――汽笛のおかげで、突然それらの札は宇宙的な聯関を獲得し、彼と母、母と男、男と海、海と彼をつなぐ、のっぴきならない存在の環を垣間見せたのだ。

 いっぽうの竜二は、海が好きというより陸が嫌いであるがゆえに船乗りになったような男であり、同じ乗組員とあまり打ち解けることない変わり者として生きてきた。天涯孤独の身となり、陸とのつながりのいっさいを失った竜二の属する世界は、自由の世界である。だが、彼が自由の象徴である海に求めた、自分のためだけに用意されているはずの栄光はどこにもなく、自由の象徴であるはずの海は、現実には船という監獄のなかの世界でしかないという事実に倦み疲れていた。自分が求めていた栄光、死でもって決定的に結びついているはずの運命の女性――登の母親である房子と出会い、情事にいたったのは、まさにそんな時のことであった。

 物語の内容自体は、けっして難しいものではない。天涯孤独だった船乗りが、未亡人との恋に目覚め、やがて船乗りであることを捨てて、房子の夫として、そして登の父親として家庭をもつことを決意する――それはある意味、テレビで放送されている昼のメロドラマを思わせるような展開でもあるのだが、重要なのはその物語の内容ではなく、かぎりなく自由であるはずの竜二と、かぎりなく不自由であるはずの登の世界が、それぞれが対極に位置する関係であるにもかかわらず、どちらもこのうえなく空虚であるという事実である。そして、その空虚さはひとえに、完璧であるという理想と、不完全でしかない現実との、埋めることのできないギャップから生じるものでもある。

 ギャップそのものは、竜二と登の世界のあいだにも存在する。そしてそのギャップは、物語が進み、お互いがお互いの世界を知れば知るほど深く、取り返しのつかないものとなっていく。ただ、そのことに竜二は気づくことはないのに対して、登のほうは絶望的なまでに気づいてしまうのだ。それは、竜二にとって登の不自由さが既知のものであり、彼が陸に上がり父親になるという決意が、大人であれば必然的になされる妥協の産物であるのに対し、登にとって竜二の自由は、彼が夢みる完璧な世界のピースであり、未知であるがゆえに理想たりえたという違いからくるものでもある。

 自由であることは、完璧であることと結びつくことはなく、かえって不自由でしかないという事実――登は竜二の世界にそれを見て絶望するが、じつは登自身の世界においても起こったことである。なぜなら、物語の後半、登は他ならぬ竜二の提案によって部屋の鍵を外からかけられることがなくなっており、それは登の世界が自由へと開かれたことを意味するはずであるのに、しかしまさにその自由によって、登は母親の寝室を覗くという自由を失ってしまうからだ。覗き見ることによってしか完成しない、完璧なる世界――それが虚構であるとわかったとき、登をはじめとする少年たちが「死」という究極に目を向けるのは、必然だったと言える。

 曳航という言葉は、船が船を引っ張っていく行為を指すものであるが、本書のタイトルが、第一部の最後におけるタグ・ボートによる貨物船の曳航と、第二部の最後における登たちによる竜二の「曳航」とを指すものであることは間違いない。登たちはじっさいには、竜二を自分たちの秘密の場所に連れていこうとしているのだが、それはそのまま「死への曳航」であり、同時に「死という名の栄光」へとつながっていくものでもある。理想と現実のギャップの果てに、著者が何を見ていたのか、その片鱗が本書にはたしかにある。(2007.02.04)

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