【DHC】
『小さきものたちの神』

アルンダティ・ロイ著/工藤惺文訳 

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 身分違いの恋というものがハッピーエンドで終わる可能性は、現実にはどのくらいの確率なのだろうか、ということをふと考える。恋愛をおもなテーマとする小説や映画などでは、たとえばふつうの女性が異国の王子様なんかと知りあい、最終的に結ばれるというストーリーの展開があっても、話としてはおかしなことはないのだが、身分の有無にかかわらず、好きになった男女が結婚とかいった形で結ばれるのは、じっさいには稀有のことなのではないだろうか。誰かに恋するというのは、一種の病気であり、ある種異常な感情である。だが、結婚というのはあくまで現実のことであり、そうである以上、恋愛感情という異常な状態だけを頼みにできるわけではない。

 私自身の体験として、身分違いの恋と言えるようなものを経験したわけではない。せいぜいが年の離れた初恋の相手がいたとか、その程度のことでしかないのだが、そもそも「身分」とはどういうものなのか。それはたとえば、昨今言われているような「勝ち組」「負け組」といった「区分」とどんな違いがあるのかと考えると、そこにあるのはその国における社会的背景であり、長くつづいてきた歴史ということになるだろう。そして、そうした強固な因習に対抗するには、個人の感情というのはあまりにちっぽけなものだ。だが、それでもなお人は、ときに理性よりも感情を優先させ、燃え上がる恋愛感情に身をまかせて行動することをやめようとしないことがある。

 インドにカーストという厳格な身分制度がある、ということを、かつて学校で学んだことがある。本書『小さきものたちの神』という作品について、何かを語るのはなかなか難しいのだが、物語の中心に位置しているのは、そうした身分制度を無視するような形で結びつくことになった男女の恋愛感情であり、その恋愛に対して彼らの社会がくだした「歴史の愛の掟」であることを、まずは理解しておく必要がある。そうすることによって、本書のラストに書かれたあるシーンが、さまざまな意味で本書の登場人物たちがたどることになる未来と呼応していることが見えてくるからだ。

 物語は、ラヘルという女性が故郷であるインドのアエメナムに戻ってくるところからはじまる。彼女にはエスタという双子の兄がいるのだが、ラヘルは長く彼と会っていなかった。今回彼女が戻る気になったのは、その双子の兄が故郷に戻ってきていると知ったからなのだが、エスタは誰とも口をきかず、黙って町を徘徊するだけの男になっていた。ラヘル自身はアメリカ人と結婚したものの、けっきょくはうまくいかず離婚したという経験をもち、けっして幸福な生活を送っているわけではない。そしてラヘルの心は、しばしば過去へと飛ぶ。ラヘルとエスタがまだ七歳の子どもだった頃――そのとき、いとこのソフィー・モルが死に、ふたりの母親であるアムーの身に何かが起こった。それはアムーに警察に赴かせ、「重大なあやまり」があったと告白させるようなことだったのだが、そのとき起きたことは結果的に、ラヘルとエスタを離れ離れにした。ラヘルは母親のもとに、エスタは離婚した父親のもとに。

 はたして、いとこのソフィーはなぜ死んでしまったのか、そしてアムーの身に何が起こり、どんな危機的状況をその一家にもたらしたのか。現在から過去を振り返るという形をとりながら、物語の大半は過去の回想によって占められている本書は、しばしば叙情的な表現によってことの真相が煙に巻かれるようなところがあり、肝心なところがなかなか見えてこないというところがあるのだが、そのなかば幻想的な過去の思い出は、読み進めていくにつれて、ラヘルとエスタの経験することになった現実の残酷さを、オブラートでくるむような役割をはたしていることに気がつくことになる。

 同じ年ごろの他の子どもたちが別のことを学んでいるあいだに、エスタとラヘルはいかに歴史が「法」をとり決め、その法を破る者たちから税をとりたてるかを学んだ。気持ちが悪くなるような、ずしんとひびく音を聞いた。そのにおいを嗅ぎ、けっして忘れなかった。

 ラヘルの家族は、インド社会のなかでは裕福な部類にはいる。祖母のママチはパラダイス・ピクルスという保存食会社を創立した人物であり、その息子であり、ラヘルにとっては伯父にあたるチャコがその会社を経営しており、使用人を雇い、映画を観ることができるような生活のなかに、彼女はいたのだ。だが、こと結婚生活という点では、彼らはけっして成功者というわけではない。ママチの夫であるパパチはしばしば家族に暴力をふるうような男であったし、大叔母のベイビーはキリスト教の聖職者に恋をし、みずから修道女となったものの、その恋はけっして実ることはなかった。チャコの妻だったイギリス人のマーガレットは、別の男と再婚したものの、彼を交通事故で亡くしてしまっているし、なによりラヘルの両親は離婚しており、すでに別居状態にあった。そんななか、マーガレットが娘のソフィー・モルとともに、元夫を頼るような形でアエメナムにやってきた。そして悲劇が起きた。

 ラヘルをとりまく家庭環境は、けっして単純なものではなく、それゆえにそれぞれの登場人物が心の奥に隠している感情もまた複雑なものだと言える。そして、そのうえにカースト制度という現実が絡んでくる。パラヴァンという、カーストの外にいる身分の存在、そんな彼らを決定的にわける「可触民」「非可触民」という表現――当時、まだ七歳だったラヘルとエスタにとって、そうした社会的背景が、はたしてどこまで理解できていただろうか。「たった一日のうちに人生が変わってしまうこともある」という表現が、本書のなかには何度も出てくるが、事件が起きたとき、ふたりにわかったのは、自分たちがもはや子どものままではいられないこと、同時に、子どもであるがゆえの無邪気さが、自分たちにとって生きる武器となる、ということだけだった。そしてそれは、直観に近いもので、けっして理屈として理解できたわけではなかっただろうことは、想像に難くない。そんなふうに考えたとき、ラヘルの追憶のなかでしばしば起こる幻想的な表現の数々、ことの真相をぼかすかのような展開のなかに、自己防衛的な悲痛さが見え隠れしているように思えるのは、はたして私だけだろうか。

 インド社会の現実、身分違いの恋愛など、さまざまな要素の入り混じる本書であるが、そうした要素のすべてが、まだ子どもであったはずのラヘルとエスタを子どものままではいられなくしてしまったのだとすれば、それは間違いなくひとつの悲劇である。そして、そんな彼らが年齢的にも大人となった現在置かれている状況が――あるいは彼らの親や親類が置かれていた状況が、本書のラストと呼応するとわかったとき、はたして読者はどのような感慨を受け入れなければならなくなるのだろうか。(2008.01.28)

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