【文藝春秋】
『神の汚れた手』

曽野綾子著 



 大石圭という作家の書いた『処刑列車』は、電車を占領した犯人グループが、およそヒューマニズムや人間愛などいっさい無視した形で、情け容赦なく次々と乗客たちを殺戮していくという、まったく救いのない内容の作品であったが、その犯人たちが、自分たちのことを「運悪くこの世に生まれてこられなかった者たち」だと語ったとき、その作品は少なくとも、現代の日本が抱える大きな矛盾――本当は誰もが気づいていながら目をつぶりつづけてきた問題を、もっとも衝撃的な形で私たちの目の前に突きつけた、という意味で、やはり重要なメッセージを秘めた作品でもあったと言うことができる。それは、生命の尊厳、生きることの尊さを声高に叫びながら、その裏で死刑を容認し、まぎれもない殺人であるはずの「中絶」を、たんなる医療行為としてしかみなしていない、私たち日本人の欠落してしまった想像力への非難であり、それゆえに「戦後最大の産業」とさえ呼ばれる日本の生殖医療、そして中絶を合法的に認める「中絶国家」たる日本の、まぎれもない現実認識でもあるのだ。

 神の恩恵たる出産――新たな生命の誕生に深くかかわるいっぽうで、その生命を人工的な手段で抹殺する技術の使い手でもある産婦人科医という職業は、常に人間の生と死という、もっとも両極端に位置するものと、もっとも直接的に関わらなくてはならない、という意味で、非常に業深いものであり、また日本という国が抱える二律背反のもっとも具体的な象徴でもあることを、曽我綾子という作家は誰よりも敏感に見抜いていたに違いない。本書『神の汚れた手』は、湘南にある小さな産婦人科医院で繰り広げられる生と死のドラマを、あくまでプロとして日夜そのドラマと対峙しているひとりの産婦人科医、野辺地貞春の目を通して克明に描ききった大作だと言っていいだろう。

 出産というと、少し前に流行したいわゆる「出産体験記」ものを思い出す。コミックの世界でも、内田春菊の『私たちは繁殖している』というリアルな出産・育児体験マンガがあり、男では絶対に体験できない出来事を、ことによると美談となりがちな社会の一般的イメージから切り離したところで、思うままに描いた興味深い内容であったが、本書の中でも、じつにさまざまな境遇に立たされた、いろいろな症状の患者やその関係者たちを通して、それまでごく一部しか知られていなかった産婦人科の実態が、きわめて具体的な専門知識をまじえて何の虚飾もなく描かれていることに、読者は驚かされることになるだろう。

 出産を滞りなく成功させるために、あるいは中絶を無事に済ませるために、どんな器具や薬を使い、また不妊症に対してどのような治療法があるのか、についての詳しい説明は、生殖器官を性欲の対象としてではなく、あくまで特定の機能を忠実に果たす部位として見ている、貞春の医師としての視点を表現する手段ともなっているのだが、そうした文章力を圧倒するかのように伝わってくるのは、出産や育児にかかわる人たちのさまざまな、そしてときには恐ろしくなるほどに個人的な思惑の強烈さであろう。

 無精子症という絶望的な状態のなかで、それでも子供が欲しいと願う夫婦、親類の誰にも知られることなく望まない出産をすませ、何が何でも身ひとつで帰ろうとする妻、精神薄弱であるがゆえに身ごもってしまった娘と、生まれてしまう、ただ邪魔なだけの赤ん坊をひそかに「処理」してほしいと頼む有力議員の父親、お腹の胎児に先天的な障害があることがわかって、中絶を決意する夫婦――そこにあるのは、今、生きているというだけで強者となる人間たちの、むきだしのエゴイズムである。母親になりたくないからお腹の子供はいらない、子供はほしいけど五体満足な赤ちゃんでなければいらない、という声なき叫び――人間もまた生き物である以上、より優秀な子孫を残したいという欲求があること、そしてそれ以上に、患者が抱える複雑な家庭の事情が、生まれてくる罪のない赤ん坊の人生を不幸にするだけかもしれない、ということを、貞春は理性ではちゃんと納得している。だが、それでも自分がそのエゴイズムの手助けをしているというまぎれもない事実が、心のどこかに不快な違和感を与えつづけるのを、貞春はどこかいいかげんで不道徳な態度をとりつづけることでまぎらわそうとしているのは間違いない。そしてそれは、出産=自然と、中絶=科学という、人類に課せられた長年の命題の縮図でもある。

 著者の曽野綾子は、幼稚園から大学までカトリック系の学校で学んでおり、キリスト教の影響を強く受けた方でもあるが、あくまで科学的であり合理的である医学を学び、人間の個々の器官が持つ、完璧なまでの機能美を知り抜いているはずの貞春の思惑とは裏腹に、妊娠は不可能だと確信していた夫婦の間に「奇跡的」な妊娠が実現したり、間違いなく中絶したはずの胎児が、その後も順調に成長していたという事実に直面するうちに、人知を超えた「何者か」の手が介入しているのではないか、という思いを強くするのは、あるいは自然な流れかもしれない。だが、人間のエゴと、それをも超越して生まれてきたり、あるいは死んでいく命のさまざまな形を見尽くした貞春が、人間という因果な生き物の弱さと強さに思いを寄せるとき、読者はそのなかに、言葉では言い表せない祈りのようなものを感じるに違いない。それはあるいは、人が人の生死を左右するという、あまりにも重い二律背反を長年背負ってきた貞春の姿に、人類のすべての罪を背負って死と再生を得たイエスの姿を垣間見るからかもしれない。

 僕はそういう場合何ですか。神父さん流に言えば、僕も神の手先なんでしょうな。それも汚れた手先なんでしょうね。

 新井素子の『チグリスとユーフラテス』では、人工子宮によって女性が出産の苦しみから解放された、未来の地球の姿が描かれていたが、その世界で問題となったのは、先天的な障害があるとわかった胎児を生かすか殺すか、という倫理観のさらなる麻痺――「なぜ殺したのか」「なぜ生かしたのか」と医師に詰め寄らずにはいられない人間の醜い心、医師に「神」の重責を要求する心だった。本書の冒頭で貞春は、母親に絞殺された赤ん坊の死体をまのあたりにした記憶を語り、最後もまた、重度の障害を抱えた赤ん坊の、生きられなかった命を見ることになる。身勝手な大人の都合で「運悪くこの世に生まれてこられなかった者たち」が、まぎれもない人間だとするなら、彼らにとっての救いとは何なのか――『処刑列車』の著者が示した命題の答えは、本書の中にこそある。(2001.10.21)

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