【新潮社】
『神の火』

高村薫著 

背景色設定:

 この世の中に「絶対」と断言できることがあるとすれば、それは「死んだ人間は生き返らない」という事実だけであり、それ以外の事柄については、あくまで確率の問題でしかない、というのが厳然たる事実である。たとえば、この私が明日一日を生きのびることができるかどうか、という事柄については、それまで延々と積み重ねてきた経験から、ほぼ間違いなく生きのびることができるだろうし、それはその先もつづいていくことだと思ってはいる。確率で言えば、ほぼ100パーセントに近いだろう。だが、それはあくまで「ほぼ」であって、けっして「絶対」ではない。もしかしたら、なにかとんでもない事故に巻き込まれて、死亡してしまう可能性も、けっしてゼロではないのだ。

 スイッチを入れれば電気がつく、蛇口をひねれば水が出る、コンビニエンスストアは24時間営業していて、多くの品物を買うことができる――私たちの身のまわりには、じつに数多くの「あたり前」だと思い込んでいる事柄があるが、その「あたり前」があたり前のものでありつづけるために必要となることも、また数多くあるという因果関係を、私たちはともすると忘れてしまいがちである。とくにこの日本という国には「安全神話」なる言葉があるが、夜も出歩けるほど治安がいいという「安全神話」も、新幹線が事故の少ない交通であるという「安全神話」も、そして日本の原子力発電が安全でクリーンだという「安全神話」も、今では何の力もない、空疎なものであることを私たちは知っている。だが、まさにその言葉がもたらす、まるで天からの恵みであるかのように思わせてしまう錯覚ゆえに、個人個人が安全を保つための努力を怠ることになったのだとすれば、それはごく当然の帰結として崩れるべくして崩れた神話だと言わざるを得ない。

 世の中に「絶対」が存在しないと認識することは、逆に言えばあらゆる「あたり前」を前提にしない、という認識をもちつづけることでもある。そして、私たち人間は本来、あまりにもちっぽけな存在であり、またつねにそうした不確定な事柄に満ちた世界で生きていくことを宿命づけられた生き物でもある。その単純ではあるが、だからこそ容赦のない現実――本書『神の火』が、冷戦構造の崩壊しつつある時代を舞台として据えている、というのは、まさにあらゆるものが変化しつづけていくということ、国という単位でさえ不変ではありえない、という意味でも、非常に象徴的である。

 本書に登場する島田浩二は、かつては日本原子力研究所に勤める第一線の技術者であったが、二年前にそこを辞め、今は小さな専門書出版社の社員として日々を過ごしていた。それは彼にとって、ソヴィエトのスパイとして日本の原子力技術に関する極秘情報を流しつづけるという、綱渡りのような二重生活への決別を意味していた。だが、彼の父誠二郎の葬式の席で、島田は自分をスパイの世界に引きずり込んだ張本人である江口彰彦と再会することになる。江口の口からもたらされた、島田自身がかつて研究していた原発の解析コードに関する公安の動き、その江口と浅からぬ因縁をもっていた、少年時代からの親友である日野草介との出会い、そして、あきらかにスラブ系の姿かたちをした「高塚良」と名乗る、得体の知れない外国人――それらの要素を結びつけていくと、今建設中の音海原子力発電所に行き着くことに気がついた島田は、自分が何かきな臭い陰謀に、すでに大きく巻き込まれてしまっていることを知る……。

 はたして、音海原子力発電所をねらっているテログループがいるという、もはや時代遅れもはなはだしい情報は、どこまで信憑性があるのか。そのテログループが入手したという《原発脅迫マニュアル》なるものは、ほんとうに存在するのか。あるとすれば、それはどのような内容のもので、どこの国が仕掛けたものなのか。そしてそれらの情報と江口の、高塚との関係は? 島田を取り巻く状況が二転三転し、物語のキーとなる情報も、その真相については何重にもわたってカムフラージュされていて、なかなか物事の真実が見えてこないという、じつに複雑怪奇な国際諜報の暗躍劇を描いたスパイ小説、という位置づけが本書であり、そういう意味では同著者の『リヴィエラを撃て』とよく似た構造をもつ作品でもあるのだが、本書においてとくに顕著な部分があるとすれば、それは、国際政治における利権がらみの権謀術策のただなかにある人々が、たんなる「スパイ」という名の記号ではなく、たしかに血がかよい、複雑な感情をときにもてあますこともある人間であるということを、何よりも描こうとしている点である。

 そして、その一点において本書をとらえたとき、島田が巻き込まれることになった諜報戦の真実――原発の情報をめぐるアメリカ、ソヴィエト、北朝鮮といった国々の思惑がどこにあるのか、といった謎は、それを解明することがメインではなく、むしろそんななかにあって、それでもひとりの人間として生きようとする島田をはじめとする人々を引き立たせることこそがメインとなっていることに、読者は気がつくことになる。

 謀略というのは、それ自体はタマネギみたいなものだと、かつて江口は言ったのだった。――(中略)――まず原発脅迫マニュアルが剥がされ、伝送網傍受のカムフラージュが剥がされ、その下から出てきたトロイの資料すらもやがて剥がされる。さらにその下にあるらしい《原子力技術者》一名もまた皮の一枚に過ぎず、それもいずれ剥がされ、敵の庭に投げ捨てられて、最後には何も残らない。

「最後には何も残らない」ような機密事項のために、まさに生身の人間の命があっけないほど簡単に消されたり、忠実なスパイを養成するために個人の人格すら破壊し、国のために全人生を犠牲にするような人間をつくりあげたりするのが国際政治であるとすれば、それは恐ろしいほどの空虚さに満ちたものである。ソヴィエトのスパイとして生きてきた島田は、その代償として自身がこの世界で生きる意味を見失ったまま生きつづけてきたが、ほかならぬ高塚良という外国人青年の存在――世界一安全だという日本の原子力発電の技術にただならぬ執着を燃やし、そのために国の言うがままに動いているように見える彼の、しかしその心の奥にあるたしかな意思の力は、最終的に島田をスパイであることから、日野草介とともに音海原子力発電所を襲撃するテロリストへと変えていくことになる。その変貌の過程、そしてその変貌をうながすことになった高塚良という人間が背負っているもの、それを知ることこそが、本書の最大の読みどころなのだ。

 島田浩二という人物は、国の最高機密とも言うべき情報に触れることができる立場にいながら、そのじつ「ソープランド」と呼ばれるところがどんなサービスをしてくれるところなのかをまったく知らなかったりするという、非常にアンバランスな一面をもっている。その限りない曖昧さは、言ってみれば島田の唯一といっていい特徴である。どの国にも、との組織にも属することのできない、安定した生活を築くことさえ許されないスパイとしての日常――そして、そのスパイという立場もまた、冷戦構造の崩壊とともに清算されるべき運命を背負っている。拠って立つものが何もない、という事実は、しかしこの世に「絶対」なるものなど何もない、という事実と呼応するものでもある。人間の個人的事情などまったく無視して、ある日突然襲いかかってくる災厄や不幸――しかしその理不尽さ、不条理こそがこの世界の真実の姿であり、その姿がさまざまなカムフラージュによってかぎりなく曖昧なものとされているのであれば、島田が本書のなかでとったテロ行為は、まさにその曖昧さをすべて剥ぎとって本来あるべき姿を取り戻す、という意味で、非常に象徴的なものである。

 原子力発電所の「安全神話」も、国際謀略の果てにある情報も、そして国の存在そのものでさえ、まるでタマネギのような空虚さしか残らないものであるとするなら、私たちはいったい何を信じ、何に寄り添って生きていくべきなのか。ときに何もかも失ってしまう可能性さえけっしてゼロではない、この不確定な世界で、それでもなお懸命に生きていこうとあがきつづける、まぎれもない生きた人間の姿が、本書のなかにはたしかに息づいている。(2005.11.21)

ホームへ