【新潮社】
『神様のボート』

江國香織著 



 人はいったい、いつから他人を疑うことを覚えるのだろうか。少なくとも幼い頃は、すべての人間――もちろん、自分の両親も含めて――が、自分という個人を愛してくれているということを、なんら疑うこともなく、無邪気に信じることができたように思う。自分と会う人間が、自分の想いに反して、必ずしも自分に好意的であるとは限らない、という事実、そして、ときには悪意を持って近づいてくるような人さえいる、という事実を、人は成長するにつれて、その心に刻まれる傷とひきかえに知ることになる。そうして次第に人は、何かを信じるよりも何かを疑うことに腐心するようになる。
 何かひとつのことを強く信じつづけることは、恐ろしく難しい。他人はおろか、自分の心さえ信じることのできない人間が溢れるこの世の中、あらゆるものが凄い勢いで変化し、定かなものなどどこにもないように思えるこの世の中で、いったいどれだけの人が、たったひとつでも何かを信じつづけることができるというのだろう。あるいは、と思う。何かを強く信じつづけることができる人間は、すでに狂気の第一歩を踏み出しているのではないか、と。ちょうど、本書『神様のボート』に登場する、野島葉子のように。

 葉子は、一人娘の草子とふたりきりで生活している。父親はいない。少なくとも、物語の中で実際に登場することはない。登場することがないにもかかわらず、そして彼が今、どこで何をしているのかまったくわからないにもかかわらず、葉子は彼の言葉を信じつづけている。「かならず戻ってくる。そうして俺はかならず葉子ちゃんを探しだす。どこにいても」そう言い残して葉子の前から姿を消してから十六年間、彼女は居場所を定めることなく放浪する生活をつづけている。けっしてひとところに長く滞在することはない――葉子にとって、ある特定の場所になじむことは、「あのひと」という、彼女にとってもっともなじむ居場所を放棄することになるから。だが、物心ついたときからすでに母親とふたりきりであり、父親の顔すら見たこともない草子にとって、母親との放浪の旅は、成長するにつれてだんだん苦痛をともなうものとなっていく。

 狂気、という言葉を使いはしたが、葉子と草子が交互に一人称で綴っていくこの物語の中に、特に強く狂気を想像させるような要素はない。葉子はごくふつうに働きながら一人娘を養っている母親、という役割を、大きな支障をきたすことなくこなしている。物事のとらえかたが人と大きく異なっているわけでもなく、日常生活がまともにできないほど精神が病んでいるわけでも、またある感情が欠如してしまっているわけでもない。でも、何か、どこかがおかしい。それは、何かが狂っている、というほど大袈裟なものではなく、漠然と感じられる違和感、そしてその違和感を覚えることによって心に生じる不安、と言ったほうがいいのかもしれない。

 草子にとっては、母親が世界のすべてだ。だから幼い頃の草子は違和感を違和感としてとらえることができない。そのための情報が、圧倒的に不足しているからだ。だが、成長し、多くの人達と接する機会を持ち、徐々に自分なりの考えを持つようになるにつれて、だんだん母親が生きている世界と自分の世界とのズレを感じるようになっていく。そんな微妙な感情の移り変わりを、本書は見事なまでに表現しているのだ。

 葉子はたしかに草子を愛している。だが、それは草子が「あのひと」の面影を残しているから――そして自分がたしかに「あのひと」を愛していたという唯一の証拠であるから愛しているのであって、草子自身を愛しているわけではない。そして悲しいことに、葉子自身はそのことにまったく気づいていないのである。自分の子供が、必ずしも自分と同じ考えを共有し、同じ世界に住んでいるわけではない、という事実、そして子供はそうやって自分のアイデンティティを築いていくという事実――その事実を受け入れたとき、親ははじめて子供が自分の所有物ではない、ということを、理屈ぬきで理解することになる。親子の関係というのは、最終的にはそのようになるべきなのだろう。

 ママとあたしの人生は、ママの言葉を借りれば「パパに会うまでずっところがっているみたいな」人生。何年も前に、ママがそれを選んだのだ。――(中略)――それはそうかもしれないけど、でも、だったら選んだのはママで、あたしではない。

「あのひと」を愛し、「あのひと」の言葉を信じるつづけることを決意したとき、葉子と草子を乗せた「神様のボート」は、ゆっくりと現実から切り離され、あてもなくさまよいはじめた。そのボートが最後には二人をどこへはこんでいくのか、ぜひ本書を読んでたしかめてもらいたい。(1999.12.08)

ホームへ