【集英社】
『神々の山嶺』

夢枕獏著 
第11回柴田錬三郎賞受賞作 

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 なぜ、山に登るのか。

 それは、より高みを目指す不屈の精神で不可能を可能にし、自分たちの文明を発展させてきた私たち人類に、なぜ生きるのか、と問うことにも似ている。
 ただ生きる、ということであれば、それは動物となんら変わりない生だ。動物は、生きることの意味を問うたりはしない。「なぜ生きるのか」という問いの中には、必然的に「人間とは何なのか」という根源的な命題が生じることになる。

 より高く、より深く、そしてより遠くへ――人がたんに日々を生きることのみに満足することなく、いまだ誰も到達したことのない領域へ、おのれの限界を超えた未知の世界へたどりつこうとする姿は美しい。それはおそらく、不可能を可能にすることへの飽くなき挑戦が、ほんのひと握りの選ばれた人間のみに許される行為であるだけでなく、その挑戦がそのまま「人間として生きること」の、ひとつの答えとなっているからであろう。

 そういう意味で、本書『神々の山嶺』に登場する羽生丈二は、まさにその存在自体が「なぜ、山に登るのか」という問いの答えであるといっても過言ではない。そして、山岳カメラマンである深町誠は、G・マロリーのカメラを追いかけているうちに、おもいがけず羽生丈二という「答え」とぶつかった、ということになるのだ。

 「そこに山があるから」という、あまりにも有名な言葉を残した、イギリスの登山家G・マロリー ――彼は1924年のエヴェレスト遠征のさい、高度8600メートルという、頂上を目前にした地点で消息を絶ってしまっているのだが、そのさいに彼がはたしてその頂に到達したのかどうか、というのは、ヒマラヤ登山史上最大のミステリーとなっている。

 おそらく一生に一度あるかどうかのヒマラヤ遠征に失敗、ふたりの仲間を失ったという敗北感をひきずったまま、ネパールのカトマンドゥに滞在していた深町が、路地裏の店で売られていたコダック製の古いカメラをマロリーのものだと見抜いてから、間違いなく歴史を変えることになるこのスクープを追う、という本書の物語の展開は、たとえばフィリップ・カーの『エサウ』などと同様、山岳ミステリーに属するものである。

 だが、深町が羽生丈二――今はビカール・サンと名乗り、何年もネパールに不法滞在している天才クライマーと邂逅し、彼の日本山岳界における過去の足取りを追ううちに、物語はにわかにこの男の圧倒的な、あるいは激烈といってもいい存在感にのみこまれていくことになる。まるで、マロリーの謎そのものが、羽生丈二という男の前ではいかにちっぽけな、どうでもいいことのように思えてしまうほどである。

 登攀不可能だと言われてきた日本の山にある難所の数々を、何かに憑かれたように次々と征服し、「天才クライマー」と呼ばれながらも、その無謀で他人を顧みないやり方のために常に孤立し、1984年のヒマラヤ遠征のさいに起こした事件によって、日本の山岳界ではすでに過去の人物となってしまった山男――山に登らない自分はゴミだと言い、人のたどったルートを頑なに拒み、そして今、すでに現役でいられる年齢はとっくに過ぎているにもかかわらず、エヴェレスト登頂、しかも、もっとも困難な南西壁ルートから、冬に、酸素も仲間も持たずに登頂するという、まさに前代未聞のアタックをかけようとしている羽生丈二の存在は、まさに孤高という言葉がふさわしい。

 他人も、幸運も、そしてときには自分自身さえ信用しないひとりの男が、まさにその人生のすべてをかけて挑もうとしている高度8000メートルの世界――すでに生命の生存可能領域を越えてしまっている、極端に薄い空気と強風、そして氷点下40度の自然環境のなかで、さらに上を目指すことが、生身の人間にとってどれだけ困難な、まさに死と隣り合わせの行為であるかということを、本書は登山に関する多くの知識をまじえて書きつづることに余念がない。それはもちろん、過酷であればあるほど、それに挑む羽生丈二の静かな、しかし熱い男のロマンが際立つことになるわけだが、著者は同時に、人間の手に届かない、むきだしの、荒々しい環境だからこそ見ることのできる大自然の雄大さ、それに対する人間という存在のちっぽけさについても触れることを忘れない。

 たとえば本書の冒頭、三葉虫の化石というミニマムな視点から、一気に視界をエヴェレスト峰へと広げることで、この世界でもっとも高い山が、かつては海の底にあったのだ、という、まさに奇跡としか言いようのない地球のもたらす力を表現した箇所などを読むと、そのとらえかたのダイナミズムに驚かされてしまう。そして、こんな圧倒的なパワーを秘めた自然に対して、たったひとりで立ち向かおうとしている羽生丈二とは、いったい何者なのか、と問わずにはいられなくなるのだ。

 たったひとつだけわかることがあるとすれば、これは、自然という巨大な獣と、羽生丈二というひとりの獣とが、真正面からぶつかりあう格闘技に似ている、ということだ。だからこそ、本書は熱い。寒さに凍えてしまいそうな環境にあって、それでもなお地底で煮えたぎっているマグマのような熱をはらんだ作品である。そしてそこには、心の中のあらゆる雑念をとりはらった、むきだしの自分がたしかにいる。いや、自分しかいない。
 絶対的な孤独のなかで、何度も何度も繰り返される自問自答、少ない酸素を求めてあえぐ荒い呼吸のように、とぎれとぎれの思考のはてにふとたどりつく、ひとつの問い。

 何故、山にゆくのか。
 何故、山に登るのか。
 それには答えがない。
 (中略)
 狂おしい。
 自分の身体の中にある狂おしいもののために、人は山に登るのである。
 何故、山に登るのかという問いの答えを拒否するように、人は、山に登る。
 頂に、答えはない。
 頂は、答えない。

 はたして、G・マロリーは史上初のエヴェレスト登頂者だったのか――それは、人類という単位で物事をとらえる歴史上では重要なことなのかもしれない。だが、個々の人間という単位に立ち返ったとき、世間での評価や歴史うんぬんという事柄がいかにちっぽけな、ささいなことであるか、ということに気づくだろう。

 天にもっとも近い場所、まさに、神にのみ住まうことの許された『神々の山嶺』に手をかけたひとりの男と、そんな男がたしかにこの世に存在したことを目撃したひとりの男の、熱い想いが本書には溢れている。(2002.02.15)

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