【小学館】
『神様のカルテ/神様のカルテ2』

夏川草介著 



 医者の仕事はあくまで病気を治療することであって、患者と一緒になって苦しんだり、同情したりすることではない――それは、このうえもない正論ではあるが、同時にこのうえなく非情なことでもある。それは裏を返せば、治せる病気であれば全力で治すが、治せない病気にかんしては専門外だと言っているのと同様であるからだ。そして残念なことに、この世には未だ治療法の確立されていない難病と呼ばれているものは、依然として存在するし、そうでなくとも末期がんや高齢者の病気など、手の施しようがない場合というのもある。そんな人たちに対して、はたして医者は何をするべきなのか、いや、何ができるのか――今回紹介する本書『神様のカルテ』、およびその続編である『神様のカルテ2』には、そうしたテーマが垣間見えてくる。

「良い医者」にはなりたい。だが何をもって「良い医者」とするのか。これは我が脳中に蟠踞する至上の難題である。

 本書に登場する一人称の語り手である栗原一止は、信州の地方都市にある本庄病院に勤務する若き内科医であるが、この病院、一般診療から救急医療まで幅広くこなすうえに「24時間、365日対応」などという看板をかかげているのはいいものの、そうした文句を頼りに押し寄せてくる患者たちを応対する医者の数は圧倒的に少なく、彼も含めたここの勤務医たちは誰もがオーバーワーク気味だったりする。栗原は信濃大学医学部卒業後、この病院に身を転じて五年になるが、内科医でありながら夜勤の当直日には緊急医として、骨折や打撲の治療も行なうし、容態が良くない患者がいれば、それこそ数日は徹夜続きがあたりまえという過酷な現場に身を置いている。

 こんなふうに紹介すると、まるで自己犠牲も辞さない医者の鑑であるかのように思えるかもしれないが、じっさいの栗原一止は夏目漱石マニアで、彼を敬愛するあまりしゃべり方まで古風な文学調だったり、夏目漱石の『草枕』の全文を暗唱できたりするほどの「変人」であるうえに、彼が当直のときはなぜか急患が激増するという妙なジンクスをもちあわせているという、妙な個性の持ち主として書かれている。

 医学部を卒業した医者の卵の、じつに八割が大学付属病院で専門職に就くなか、地方の一般病院勤務を自らの意思で選択した栗原は、たしかにどこか変わったところのある医者ではあるが、それは、大学付属病院で高度医療の知識を得たり、さらなる医療の研究にたずさわるよりは、直接患者と接し、その治療に邁進することが医者としての勤めであるという思いがあるからこその選択でもある。じつは彼の「変人」たるゆえんの根元には、こうした在野精神が多分に含まれているわけだが、逆にそうした「変人」ぶりが、彼の医者としてではなく、ひとりの人間としての魅力とつながっていることが、じつは本書を語るうえで欠かすことのできない特長のひとつとなっている。

 医療をあつかった小説として有名なのは、山崎豊子の『白い巨塔』であるが、いわゆる医局における権力闘争を描いたそれとは対極の位置にあるのが本書である。そして、栗原をはじめとする本庄病院の医師たちの「変人」ぶりや、本庄病院のかかえる、崇高な理念とは裏腹の、医者にとっての過酷な勤務状況は、ある種のマイノリティ性――社会の常識からどこかはみ出さずにはいられない者たちの象徴である。では本書での「マジョリティ」とは何かと言えば、それはこの書評の冒頭で触れた「病気を治療する医者」という理念であり、少しでも患者の命を死から遠ざけるための処置であり、それらを象徴するものとしての医局制度である。

 栗原は医者であるが、同時に治療だけが医者の仕事ではないと考えている医者でもある。そして、彼のそんな医者としての考え方そのものが「変人」、つまりマイノリティとしての彼を特徴づけるわけだが、物語の構造もこうしたマイノリティとマジョリティの対比を意識しているところが多分にある。ともすると、登場人物たちの魅力的な個性や、そんな彼らの繰り広げるユーモアな一面に目をとられがちであるが、『神様のカルテ』では、そんな栗原に大学病院勤務の話がもちこまれるという展開があるし、『神様のカルテ2』では、逆に大学病院から移ってきたという彼の友人の進藤辰也の存在が、世間一般の「医者」のイメージに一石を投じる役割をはたすことになる。栗原やその妻である榛名が住む「御嶽荘」にしても、どこか世の中からはみ出たような、一風変わった人たちばかりが集っている。そしていずれの作品においても、その根底にあるのが医療と人間との関係がどうあるべきなのか、という一貫したテーマである。

「良心に恥じぬということだけが、我々の確かな報酬だ」

 マイノリティとマジョリティの対比、というふうに書いたが、じつのところマイノリティたる栗原たちと直接対比されるべき存在は、はっきりとした形で本書に登場することはない。この点も本書の特長のひとつと言えるが、じっさいに登場するのは、現代の医局制度によってつまはじきにされた患者や医者といったマイノリティたちであり、彼らの姿をとおして、かろうじて見えてくる程度のものでしかない。そして栗原たちの視点は、そんなところに向いてはいない。向いているのは、常に患者のほうである。医者の都合や体調などお構いなしに、救いを求めてやってくる患者たち――そんな患者たちの治療に忙殺され、ときには医者としての無力感にさいなまれながらも、それでも「良心に恥じぬ」医者たらんとひそかに懊悩する医者の物語、それが本書である。

 非常に印象的なシーンがある。大学病院で余命半年と診断され、その最後の時間を本庄病院で診てもらうことになった72歳の老女のところに、足しげく見舞いに来る老紳士――彼は老女の夫でもなければ血縁者ですらないのだが、その関係を問われたときに、その老紳士は、彼女の夫にかつて「命より大事なものを救われた」者だと話す。その具体的な内容がどのようなものであったのかは、ここでは語らないが、老紳士の言う「命より大事なもの」は、そのまま本庄病院の理念や、そのに勤務する栗原たちの「良心に恥じぬ」医者たらんする精神と結びつくものでもある。こうした何気ない演出の巧みさは、本書の大きな強みである。

 人はいずれかならず死を迎える。それはどんなにすぐれた医者であっても覆すことのできない事実であるが、それでもその死がその人にとっての寿命――「神様のカルテ」にあらかじめ書かれた運命だったのか、それとももっと先延ばしにできたはずのものだったのか、という問いと常に向き合わなければならない環境に身を置くのが医者である。はたしてあなたは、本庄病院ではたらく医者や看護師たちのなかにどのような奇跡を見出すことになるのだろうか。(2012.04.24)

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