【幻冬舎】
『神の手』

久坂部羊著 



 たとえば、東日本大震災を引き金に起こった福島第一原子力発電所の大規模な事故を契機に、日本では今後原発をどうするのかという議論が沸き起こっている。メディアを見るかぎりにおいて、脱原発を求めるデモがこれまでにないほどの盛りあがりを見せているのはたしかなようであるが、こうした問題についていつも思うのは、なぜ焦点となる問題が常に単純化するような方向に動いていくのか、という点である。

 今回の例でいえば、原発推進なのか、あるいは脱原発なのかの両極端ばかりがクローズアップされ、あたかも全国民がその両極端のどちらかを選ばなければならないような状況に陥っているようにさえ思えることがあるのだが、問題はけっしてそんな単純なものではない。原発を動かし続ければ、今回のような事故が再びどこかで起こるかもしれない。だが動かさなければ、どうも電力が足りなくなって経済的にも大きなダメージを受けそうである。前者は長期的な危険性、後者は短期的な危険性をはらんでおり、政府はこのふたつの危険性について説明したうえで、今後の原発に対する展望をきちんと国民に提示して意見を求めなければならないはずなのだが、それがないがゆえに、世論がますます単純なふたつの解のどちらかを選ばずにはいられないような状況に陥っていると思えるのは、はたして私だけだろうか。

 答えをひとつに固めることができない複雑な問題というのは、世の中には数限りなく存在する。たとえば死刑制度に賛成か反対か、中絶について容認するか否定するか、単純所持を違法とする児童ポルノ禁止法改正は? 著作権のある音楽などをダウンロードすることを違法とするダウンロード違法化は? 面白いことに、どちらの意見もけっして間違ったことは言っていない。それはきわめて健全で、このうえなく正しいことを主張しているのだが、その「正しさ」がかならずしも物事をより良い方向に動かすわけではなく、それこそクジラやイルカの保護のために人間を殺すことさえ厭わない過激な集団のように、度が過ぎた極端さへと走らせることさえあることを私たちは知っている。今回紹介する本書『神の手』を読んでまず感じたのは、そうした「正しさ」の硬直化によって人としての道さえ踏み外してしまいかねない人間の危うさである。

「人の命を奪う安楽死は、聖なる神の営為です。すなわち、安楽死を執り行う医師は、"神の手"を預託された存在なのです!」

 それはひとつの安楽死疑惑からはじまった。市立京洛病院の外科医である白川泰生が、わずか二十一歳でありながら末期の肛門がんに侵されている患者の安楽死を行なったというものであるが、そのことに不服を訴えた患者の母親が、マスコミのつてを最大限利用して白川が殺人者であるかのような報道を仕掛けてきたのだ。いったんは患者の安楽死に同意し、またその処置が無意味な延命による耐えがたい苦痛から患者を救うものだったという思いについては、何の間違いもないという確信をもっていた白川だったが、病院側の診療停止によって白川を待つ患者に支障が出ることを考慮し、安楽死させたという事実を隠蔽することに同意する。ところが、事件性があるとにらんだ警察の捜査によってその隠蔽の事実が暴かれ、白川は殺人容疑として立件される直前まで追い込まれるのだが、どこかからの圧力によってけっきょくは不起訴として処理されてしまう。

 さて、本書序盤のあらすじについて簡単にまとめてみたが、こんなふうに書いてみると、主人公たる白川泰生の不安定さ、立ち位置の揺れ具合がことさら強調されていることに気がつく。じっさい、彼は安楽死をいったんは決意してからも、本当にそれを実行すべきなのかを悩みつづけていたし、マスコミが騒ぎ出し、警察が動き出してからも、決意そのものに揺らぎはないものの、自身の潜在意識まで持ち出して、たんに楽をしたかったからではないかと苦しんでいる。だがこの白川の心の揺れ動きは、後の物語の展開を見ていくことで、きわめて正常な人間の判断であり、またそれこそが本書を貫く大きなテーマであることがわかってくる。

 なぜなら、物語はこのあと、安楽死推進派と安楽死反対派とに二分され、医師やその遺族ばかりでなく、政治家や弁護士といった面々による医療の大きな流れを決定づける出来事へと発展していくことになるのだが、いずれの陣営の意見も、自分の意見が絶対に正しいという前提から抜け出ることができず、その結果として、たんに相手をやり込めてやりたいとか、どんな卑怯な手を使っても自身の優位を獲得したいとかいう、ドロドロとした権謀術数の世界が展開していくからである。そしてそこには、当然のことながら安楽死を求める患者のことなど、まるっきり置き去りにされてしまっている。

 白川ははからずも日本での安楽死のパイオニアとして持ち上げられることで、否応なくこの権謀術数のキーマンとして巻き込まれてしまうことになるのだが、ここでも彼は推進派、反対派のどちらかを味方するような明確な態度を避けるような動きをする。それはそのまま、思わぬところで安楽死の機運が高まったことへの警戒感――いやそれ以前に、安楽死は本当に患者のためになることなのか、一気に安楽死容認に傾くことで、本当は生きたいと思っている患者の命すら安易に奪うことになりはしないかという、けっしてどちらかには決められない問題に対して、真摯に向き合おうとする態度が見て取れる。

「今の日本は、安楽死禁止法が施行されているのと同じなのですよ。やれば殺人罪に問われるのですから」

 医師である以上、患者の命を守り、救うことこそが使命であるにもかかわらず、医師であるがゆえに見えてしまう、苦痛を長引かせるだけの延命行為――現状の医局制度の問題や医療崩壊と言われている現実もふくめ、たしかな専門知識に支えられた物語としてのリアリティはもちろんのこと、安楽死を焦点にあらたな医療の流れが生まれてくるダイナミズムや、推進派のカリスマ的存在である新見偵一の目的、さらには彼を支援する大物政治家の口からしばしば出てくる謎の人物「センセイ」とは誰なのか、といったミステリー的要素など、息つくまもないスピーディーな展開は、読者を一気に物語世界へと引き込むだけの魅力をもっていることはたしかであるが、それ以上に人間の命を預かる医師とは何なのか、そして医師として本当にやるべきことは何なのか、という本節に迫ろうという意思が、本書からは感じ取ることができる。

 人間の生死ともっとも直接に向き合うことになる医師としての仕事に注目した作品としては、たとえば曽野綾子の『神の汚れた手』といった良作もあるが、医療の本質を考えるためには、人の病気を治す技術よりも深い部分を見つめなおす必要があることを実感させられる。それは、そもそも人間としての生とは何か、そして死とは何かという根源的な問いだ。人間が老い、あるいは死んでいくということの意味から、医師をふくめて私たちはずいぶんと遠いところに立ち、あえて目をそむけてきたように思えるのだが、それで本当にかまわないのか、という本書の問いかけに対して、はたして私たちはどのような答えを返すことができるのだろうか。(2012.07.18)

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