【白水社】
『神は死んだ』

ロン・カリー・ジュニア著/藤井光訳 



 たとえば「神」と言ったとき、キリスト教徒が想定する「神」と、イスラム教徒が想定する「神」とは一致しない。さらに言うなら日本人が想定する「神」とも異なるし、中国人が想定する「神」とも異なっている。同じ「神」という言葉でありながら、その言葉によって想起されるものがかならずしも一致しないというのは、今の私たちからすればあたり前のこと――その人がどんな宗教を信奉しているか、あるいは信者ではなくとも、どの宗教圏で生まれ育ったかによって左右されるものであることを知っている。だが、こうした相対主義が世のなかで主権を握ったのは、ごく最近のことにすぎない。それ以前の人たちは、「神」と言えば全人類がまったく同じものを想定するという常識のなかで生きており、たとえば「神」にさまざまな種類があることなど想像することさえできなかった。

「神は死んだ」とは、哲学者ニーチェの有名な言葉のひとつであるが、私なりに理解しているこの言葉の意味は、ようするに上述のようなことだと思っている。つまり「神」の概念が相対化してしまい、「唯一絶対」という一神教の神がもっていた特質が、それゆえに失われてしまったということである。だからこそニーチェのこの言葉は、キリスト教圏で生きる人たちにとっては大きな衝撃となったわけだが、八百万の神の概念文化を生きる日本人には、その衝撃は理解しづらいものがあったりする。なぜなら日本人にとっての神とは、唯一絶対な存在というよりも、むしろ呪いや祟りに近いものであり、なだめすかしておとなしくしてもらうことがある種の宗教となっているからだ。

 それゆえに、今回紹介する本書のタイトル『神は死んだ』は挑戦的である。そこには当然のことながら、二十世紀を象徴する「神は死んだ」という土台があり、そこから一世紀が過ぎた現代において、この言葉を再定義するという意図が仄見える。そして連作短編集という形でまとめられた本書のなかで試みられたのは、神をひとりの無力な人間として、文字どおり殺してしまう、ということである。

 神の死は何千という死の一つにすぎなかった。野生化した犬たちがその死体を食べて、突然ギリシャ語とヘブライ語をごちゃ混ぜで話すようになり、ガラスの上を動くような調子で白ナイル川の水面を歩いていなかったら、その死は誰にも気づかれなかっただろう。

(『偽りの偶像』より)

 表題作でもある短編『神は死んだ』は、その後のすべての短編の底辺に流れる主題の顛末を書いたもので、すべてはここからはじまるわけだが、ここで「神」として登場する存在は、人としては無力に等しい。民族紛争の渦中にあるスーダンにおいて、彼はその紛争を止めることはおろか、自分の身もろくに護ることができずにいるのだが、それは私たちの知る現実世界においても同じことだ。ただひとつ異なるのは、その「神」が超次的な存在としてではなく、私たちと同じ人間として、つまりは私たち人間の認識可能な存在として書かれている、という点である。もし「神」という存在が、私たちと同じような人格をもち、ものを考えているとしたら、はたして今のこの世界の有様をどう思うのか――そんな、きわめて俗人的な視点が、本書のなかにはある。

 少し前のキリスト教圏であれば、おそらく考えることさえ冒涜的だった発想が、まさにひとつの小説のテーマとして書かれているという点が、何より本書の大きな特長ともなっている。じっさい、その権限の大きさという意味では、神よりもアメリカ国務長官であるコリン・パウエルのほうがはるかに上であるのだが、当然のことながら彼にもこの紛争を止めるための、決定的な手立てを持ち合わせてはいない。そして彼ができるのは、きわめて人間的な手段によって、うわべを繕うことだけである。

 少し見方を変えるなら、本書に登場し、そして「何千という死の一つ」として死ぬことになる「神」とは、絶対的な視点を失い、相対化によって無力化した神ということになる。だが、たとえ無力化したとしても、人々が「神」という存在に期待していたことそのものが消え去るわけではない。人間の力の及ばないさまざまな苦難を前に、人々は神に祈りを捧げる。あるいは身のうちに起きた不幸に対して、神の無慈悲を嘆く。私たち人間が、その超越性ゆえに無自覚に依存してきた存在――それが本書における「神」だと定義すると、本書で重要なのは神の死そのものではなく、神が死んだことが全世界的に通知されたことこそが、大きな意味をもつことになる。

「こういうときに神が死んでるって嫌ね」セリアは言う。「でしょ? だって前までは、いやなことがあったら――(中略)――こんなはめになったのはあんたのせいだ、わたしが怒るのももっともでしょって思えたもの。でも、今じゃおかしなことになっても誰も責任を取ってくれない」

(『偽りの偶像』より)

 絶対的な存在としての「神」が、きわめて実存的な存在として死に、しかもそのことに否応なく気づかされた人たちが、神の死後にどのように世界と接していくことになるか――本書に収められた短編のテーマは、つまるところそれに尽きる。『橋』における神父の自殺のように、さりげない形でその影響を書いたものもあれば、『偽りの偶像』のように、拠りどころを失った大人たちが、その代替として子どもたちを神のように崇め奉るようになったり、あるいは『小春日和』のように、神の死によって生きる意味を見失い、お互いの頭を銃で吹っ飛ばすゲームが起こったり、『救済のヘルメットと精霊の剣』のように、国どうしの戦争ではなく、思想の対立による大規模な戦争が勃発したりするが、いずれも神の死後をとらえるための物語だと言うことができる。

 しかしながら本書を読んでいてあらためて感じさせられるのは、「神は死んだ」というある種の比喩を文字どおりの意味にとらえた本書の世界が、きわめて異質だと感じるいっぽうで、驚くほど私たちの生きる現実世界に似ているとも感じられることだ。神が生きていようと死んでいようと、私たちが人間として生まれ、さまざまな業に苦悩し、あるいは生きる意味を求めて迷いながらも生きていくことに変わりない――言い換えれば、神が絶対的な存在でなくなったということは、その神によって「人間」として定義づけてもらっていた私たちもまた、特別な存在ではなくなったということである。上述の引用にもあるとおり、私たちは私たちのあらゆる言動に対して、すべての責任をひとりで負わなければならなくなった。食料として動物を殺すことは、神がそういうふうに定義したからそうするのではなく、自分自身が動物であるからに他ならないのだ。

 それはある意味で、非常にしんどい。そして、そんなしんどい世界を描いたのが本書であるとするなら、はたして私たちは、神なき現代において、どれだけ人間たりえているのだろうとあらためて思わずにはいられなくなる。頼るべき「絶対」のない世界において、それこそ『神を食べた犬へのインタビュー』に登場する犬のように、「それでも生きていけるのか?」と問われて、私たちはそれ相応の回答をもちえることができるのだろうか。あるいは「押し潰され、中身を失い、」「抜け殻になってしまう」のだろうか。(2014.05.19)

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