【講談社】
『GO』

金城一紀著 
第123回直木賞受賞作 

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 たとえば、私を含めた日本国籍をもつ人たちは、自分が日本人であるという自覚を、いったいどのくらい持っているのだろうか。

 今、日本の教育界では、それまでの偏差値中心の教育を見直し、それぞれが持つ個性を重視し、伸ばしていくような新しい教育を模索しているというが、自分がほかの誰でもない、まぎれもない自分自身であること――アイデンティティの獲得と、自分が日本という国に属する日本人のひとりである、ということとが結びついていない国民は、世界でも珍しいのだという。そこには、あるいは太平洋戦争において、国の上層部の言うがままに世界じゅうを敵にまわして愚かな戦争を続けなければならなかった日本国民の、日本という国に対する神経質なまでの不信感があるのかもしれないし、また敗戦後に行なわれた、欧米文化の無秩序なまでの輸入によって、本当に良いものとして残しておくべきだった、日本の数々の伝統や文化が次々と廃れ、あらゆるものが不透明になり、日本が世界に対して誇れるものが見つけにくくなっている、というのもあるのかもしれない。

 本書『GO』に登場する杉原は、日本で生まれ、日本で育ったにもかかわらず、両親が朝鮮籍をもっているがために、知らないうちに「在日朝鮮人」ということにされていた少年である。そして本書は、杉原という登場人物を通して、日本人であることの自覚が限りなく薄いにもかかわらず、日本人以外の黄色人種に対する独特の偏見を隠そうとしない日本人に「日本人って何?」と問いかける作品であると言うことができるだろう。だが、その問いかけは同時に、朝鮮人や韓国人に対しても発せられているのだ。なぜなら、杉原の家族はその冒頭において、ハワイに行きたいがために国籍を朝鮮籍から韓国籍へとあっさりと移し替え、杉原自身も、それまで通っていた民族学校を拒否して、日本の高校に受験して合格し、普通の日本の高校生「杉原」として、日本の高校に通っているのだから。

「在日朝鮮人」「在日韓国人」というのは、たとえ日本で生まれていても日本国民とはみなされず、いろいろの面で差別的な扱いを受け、いっぽう本国のほうからは、「日本という裕福な国で、何ひとつ不自由なく過ごしている人たち」という偏見を持たれているという。日本人でもなく、韓国人でも、朝鮮人でもない、いわば「根無し草」同然の存在――だが、本書に溢れる雰囲気は、けっして暗く重苦しいものではなく、むしろ「よくあること」程度の軽いノリで終始している。元プロボクサーだった父がその腕ひとつで財産を築いていったように、杉原もまた、高校で無敵の悪ガキとして君臨しているのだが、ヤクザの息子で彼の唯一の友人でもある加藤の誕生パーティーで、なぜかウーロン茶だけを飲んだり、殴り倒した若い警官を放っておけなくて、意識が戻るまでそばにいてやったり、かと思うと駅に入ってくる電車の前に飛び降りてチキンレースまがいのことをしたり、「チョン公」と呼んだ同級生を殴り飛ばし、ヤクザも真っ青の脅しをかけたりと、タフでハチャメチャで、馬鹿ばかりやっていて、でもどこか憎めないキャラクターとして描かれている。その様子は、どこの高校にもいそうな、ちょっとパワフルではあるが本当にただの高校生でしかない。

 そう、世の中の不条理に対して若者特有の理不尽さを感じて憤ったり、自分の将来について不安に思ったり、父親に反抗したり、という心の動きに、国籍の違いなど無関係なのだ。ただ、そこに「在日朝鮮人」「在日韓国人」という頭文字がつくことで、不条理に思う回数が飛躍的に多くなる、という事実が、そこにはある。ときに「日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたく」なったり、ときに「韓国なんか潰れちまえ」と思ったりしながら、しかし基本的に杉原にとって、差別はどうでもいいこととしてとらえられている。なぜなら、彼は知っているからだ。差別する日本人の国籍――彼らがあたり前のように身につけていると思いこんでいる「日本人」というものの実体が、じつは非常に曖昧なものでしかなく、国籍だってその気になれば「マンションの賃貸契約書」のように、契約したり解約したりできる程度のものでしかない、ということを。

 だが、そんな彼のそれまでの意識を大きく変えてしまう、ひとりの少女が登場する。加藤の誕生パーティーで、突然杉原の前に現れた彼女――桜井に、杉原はなかば引きずられるように惹かれていく自分に気がつく。そして同時に、彼女が杉原のことを、自分と同じ日本人であると思い込んでいる、ということにも。お互いに惹かれ合い、何度かデートを繰り返しながら、杉原はいつか自分の国籍のことを――いつのまにか隠し事みたいになってしまった国籍のことを話さなければならなくなるときのことを考える。かつて杉原に「名前なんかどうでもいいじゃない」と言ってのけたように、「国籍なんかどうでもいいじゃない」と言ってくれれば、どんなにいいか……。

 かつて、籍を朝鮮から韓国に変えるさい、父親から「広い世界を見ろ」と言われた杉原は、その言葉どおり、民族学校という、狭いけれど居心地のいい世界を飛び出していく、という選択をした。それは、それまで「在日朝鮮人」という枠にはめられていた自分自身を変えたい、という欲求でもあった。小学三年のときに、日本の官憲をパチンコで撃退した金日成よりも、色つきの水風船爆弾でミニパトを何台も襲撃した自分のほうがスゴイと気づいてしまった杉原は、しかし飛び出した世界もまた、けっきょくのところ国籍というものににとらわれすぎていて、しかもそれを自分にまで押しつけようとする「狭い世界」であることに気づいてしまう。今までなら、それでもよかったのかもしれない。閉じ込められているのは、どうでもいいような日本人なのだから。

 だが、そのどうでもいい日本人の中に、桜井は組み込まれている。彼のもっとも大切な日本人である桜井――はたして、彼女との仲は、どうなってしまうのか?

 言っとくけどな、俺は《在日》でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。

 世界は変わるだろうか、いや、世界は変えられるだろうか。在日であるとか、日本人であるとか、そういう枠組みそのものが関係なくなるような世界が、いつかは来るのだろうか。国籍やイデオロギーといった胡散臭いものを楽々と跳びこえていくことのできる杉原の、清々しさすら感じさせる豪快な行動を見ていると、そんな途方もないことさえ大したことではないように思えてくるから不思議だ。そう、私たちは、たとえ大きな困難にぶつかっても、そこで止まっているわけにはいかないのだ。国籍を変え、そして世界を変えてでも、杉原は自分のために進んでいくだろう。本書のタイトル『GO』には、きっと乗り越えること、進んでいくことに対する勇気がこめられているに違いない。(2000.09.08)

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