【岩波書店】
『愛しのグレンダ』

フリオ・コルタサル著/野谷文昭訳 



 私たちの生きているこの現実世界というものが、私たちが考えているほど磐石なものでも、万人にとって共通のものでもない、ということは、絶対的な真実や確実な根拠など存在しない、という前提のもとに発展していった現代思想の流れを少しばかりかじってみれば、おのずと知れることでもある。「私」という主観がとらえている世界のあり方は、必ずしも隣人のとらえる世界と同じというわけではない。そんな私たち個々の孤立した世界をつなぐために言葉は生まれ、言葉を用いてお互いにコミュニケーションをとることはできるが、それでもなお、言葉というものはさまざまな解釈の余地を残すものであり、個人によって言葉の捉えかたが異なり、また時と場合によっては嘘をつくこともある、という事実をどうすることもできない。

 たしかなものが何もない、というのは、自我をもって生まれ、世の中のあらゆるものに名前をつけることによって分類し、自分たちの世界の秩序として組み込んできた私たち人間にとっては一種の恐怖である。だが同時に、そうした秩序づけされていない世界というのは、あらゆる可能性を秘めた未知数の世界でもあると言える。今回紹介する『愛しのグレンダ』は、表題作を含む10の短編を収めた短編集であるが、いずれの作品においても顕著なのは、私たちがあたりまえのものとして受け入れている現実世界というものの限りない曖昧さが、たとえば語り手の妄想や夢といったつくりものの世界、もうひとつの世界とのねじれや歪みによって強調され、読者のなかでどんどんぐらついていく、という点である。

 たとえば、表題作の『愛しのグレンダ』は、女優であるグレンダ・ガーソンをこよなく愛する同好の士たちが、彼女をより完璧な女性として演出するために、彼女の出演する現実の映画に次々と改変を加えていったあげく、最後には実在する人間としてのグレンダに対して「究極の改変」を行なうことを匂わせているし、『ノートへの書付』では、ブエノスアイレスの地下鉄で行なわれた乗降客調査において、入った人数と出た人数が一致しないという結果から、地下鉄内で秘密裏に生活している集団がいるのではないか、という妄想に囚われてしまう。『クローン』では、浮気した妻を浮気相手ともども殺害したという、あるマドリガル作家の合唱を演じていた八人の歌い手たちのなかで、いつのまにか同じような悲劇が合わせ鏡のように起こってしまうし、『自分に話す物語』では、語り手の男性が夢のなかでみた光景が、友人のディリアのなかでたしかな現実として認識されているという奇妙な現象が生じている。

 現実と妄想、現実と夢、といった言い方をしてはいるが、本書の短編のなかで、どちらが現実でどちらが幻想なのか、といった境界は、きわめて曖昧なものでしかなく、そうした境目をはっきりとさせず、どちらでもない余地をできるだけ大きく残すような表現を徹底している部分がある。それは、たとえば『猫の視線』のように、ありもしない妻の真実の姿を見出そうと観察しているうちに、いつのまにか自分が妻と猫から観察される側に立たされているといった、まるで騙し絵を見せられているかのような手法をとる場合もあれば、資産家と結婚するために捨てた男の影に惑わされたあげく、現実に殺人を犯してしまう『帰還のタンゴ』のように、幻想が現実を駆逐していくような手法をとる場合もあるのだが、『帰還のタンゴ』のマティルデ夫人の見た男が、本当に彼女のかつての夫のミロだったのかも、彼女が殺した男が何者だったのかも、短編のなかではあきらかにされていないのだ。

 何気ない現実のなかに、ふとまぎれこんでくる幻――それが当人の妄想なのか、それともまったく別の何かなのか、読者は想像しながら読み進めていくしかなく、しかもそこには何らかの正解があるわけでもない。境界線はかぎりなくぼやけ、現実と仮想はいともたやすく混じりあい、どちらがどちらとも言えない独自の世界観が生まれてくる。『メビウスの輪』においては、レイプされて殺された女が、現実世界から離れた高次の世界とも言うべき場所で、逆にその男に惹かれていくという、現実的にはけっしてありえそうもない感情の逆転が生じているのだが、レイプされたこと、殺されたことへの負の感情そのものが、現実世界に生きる私たちの、現実世界に生きているがゆえの束縛であるとすれば、そうした現実の判断や個人的感情そのものを曖昧にしていきたいという意図をそこに見てとることもできる。

 ともすると、意味不明なままに読み終えてしまいそうな短編ばかりを収めている本書は、それゆえに油断できない作品集でもある。そしてそれは、本書のなかにおける現実と幻想の区別そのものを無効のもの、どちらでもないと同時にどちらでもある、という著者の絶妙なバランス感覚に拠るところが大きい。たとえば、私たちは現実世界を自分たちの思いどおりにはならない世界ととらえ、その対極として幻想や仮想といったもうひとつの世界をとらえる。そこでは、個人の妄想が思うがままの世界、現実を規定する地所の存在しない世界であり、フロイトでいうところの性的欲求の解き放たれたものとしての夢をみる。だが、本書のなかにおける個人の妄想世界は、けっしてその本人にとって都合のいいことばかり起こるわけではなく、またその妄想世界でのできごとは、境界線が存在しないがゆえに、いとも容易に現実世界に影響をおよぼしてしまう。軍事政権による組織的暴力に憤りを覚えながらも、いつのまにか自分もまた暴力を振るう側に立たされてしまっている『ふたつの切り抜き』などは、語り手の作家が体験した事柄の、どこまでが現実なのか、どこまでが作り話なのか、最後まではっきりすることはないのだ。

 現実世界という概念そのものが、ともすると瓦解していきかねない危うさと、そこから生じる既存の概念をことごとく揺さぶっていくこれらの短編集に、はたして読者はどこまでついていくことができるだろうか。(2008.10.28)

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