【早川書房】
『魔法』

クリストファー・プリースト著/古沢嘉通訳 



 あたり前のことではあるが、ある小説には、かならずその書き手というものが存在する。物語の創造主たる作者――登場人物の造形や性格も、物語のあらすじや、そのなかで起こるさまざまな事件も、そして来るべき結末も、すべて作者の手によって生み出された虚構にほかならないのだが、私たちが小説を読んでいるあいだ、それが誰かの創作であること、つまり書き手の存在を意識することはあまりない。もちろん、すべての小説がそうだというわけではない。作家もまた私たちと同じ人間であり、それぞれが独自の悩みや考えをもち、そうしたものを原動力として小説という作品を書きあげるがゆえに、物語のなかに書き手の存在を感じさせられることがあるのも事実であるが、それでもその小説が読み手にとって面白く、心を魅了する力を発揮しているとき、読み手の意識はあくまで物語上の登場人物や物語の流れに集中していて、けっしてその作り手である作者のほうに向けられることはない。

 よくよく考えてみれば、これはなんとも不思議なことではある。小説の作り手としてたしかにこの世に存在する、あるいはかつて存在していたはずの作家という存在が、しかしその作中ではまったくといっていいほど不可視であるという事実――もちろん、作者と登場人物とはまったく性質のことなる存在ではあるが、小説を書いたのがほかならぬ作家であるからには、その存在は少なくとも物語の登場人物よりはるかに高い実在性をもっていてもいいはずなのだ。これから紹介する本書『魔法』を、もしこれから読んでみようと思っているかたがいらっしゃるなら、物語の作者の存在について、頭のどこかに意識しながら読み進めていくことをまずはお勧めする。

 いまのところ、わたしはただの“わたし”だが、やがて名前をもつようになるだろう。この話は、さまざまな声で語られた、わたし自身の物語なのだ。

 本書に登場するリチャード・グレイは、危険を顧みない勇敢な報道カメラマンとしてその業界では有名な人物だったが、車載爆弾によるテロに巻き込まれて重症を負い、一命はとりとめたものの、ミドルクーム病院で長く療養を受けなければならない状態にあった。そのときのショックのためか、彼の記憶は爆弾テロに巻き込まれるまでの数週間がすっぽりと抜け落ちていたが、なにより普通の生活を取り戻すことを重要視していた彼にとって、それは大きな問題ではなかった。だが、グレイの恋人だと称する女性スーザン・キューリーが病院にやってきてから、彼の失われた数週間は大きな関心事となった。グレイは彼女のことをまったく覚えていなかったが、彼女のことを、そして彼女とのあいだに何があったのか、その真実を知りたいというたしかな欲求があったからだ……。

 はたして、グレイとスーザンとのあいだに何があったのか――本書の焦点が、グレイの失われた数週間の記憶にあてられているのはたしかだが、たとえばその記憶のなかにテロ事件解決の重要な情報が隠されているといったミステリーの要素や、あるいは失われた記憶をテーマとした男女の恋愛といった、いかにも感動を匂わせる要素を本書のなかに求めている方がいらっしゃるとすれば、本書の展開は相当に面食らうものとなるだろう。そもそも、グレイは物語の早い段階でその記憶を補完したらしく、第三部ではあきらかにグレイを語り手とした、つまりはグレイの主観によって、爆弾テロの直前まで何があったのかが書かれている。だが、その後の第五部で、スーザンの主観によって語られる彼女の記憶は、グレイのそれとはかけ離れた内容なのだ。しかも彼女の話によると、この世界には他人にまったくその存在を意識させることのない「不可視人」がいることになっており、スーザンも、そしてグレイ自身もその不可視の力「魅する力(the glamour)」をもっているという。

 本書のタイトル『魔法』は、原典では「THE GLAMOUR」となっており、一般的に言うところのグラマー、つまり魅力的なといった意味ではなく、自分を透明にして誰からも気づかれないようにする能力のことを指しているのがわかる。そこにたしかに存在しているにもかかわらず、誰にもその存在を意識させない、たとえどんな目立つ格好をし、どんな破天荒なことをしても、その人間が存在しないことを前提に、その記憶さえ変容させてしまう力――本書が非常に興味深いのは、まさにその「不可視」の能力が、他人の記憶にも影響をおよぼすほどの強力なものであるがゆえに、本書を読んでいけばいくほど究極的に誰の記憶が真実を述べているのか、読者にはわからなくなってしまうという点である。

 グレイの記憶は、「魅する力(the glamour)」が実在しないことを前提としたものである。スーザンの元恋人であり、彼女との縁を取り戻そうとしつこく彼女につきまとうナイオールという男は、グレイの記憶においてはただの一度もその姿を見せたことがなく、にもかかわらずスーザンの言動に深い影響力をおよぼす彼の存在に、いらだちを覚えずにはいられない。だが、グレイの記憶におけるナイオールは、たしかに困った人間ではあるが、少なくともこの世に実在する人間として納得できるものであった。だが、スーザンの語る記憶は「魅する力(the glamour)」という、常識的な人にとってはとうてい理解しがたい力の実在を前提としており、それゆえにグレイは――そして私たち読者も――ナイオールという人物の実在を疑わざるをえない状況になってしまうのだ。もしかしたら、スーザンの語る「魅する力(the glamour)」は彼女の妄想であり、それゆえに完全なる「不可視人」であり、誰からもけっして意識されることがないというナイオールもまた、彼女の妄想が生み出した虚構なのではないか、と思ってしまうのである。

 人はまさに自分が見たいと望むものしか見ることができない、というのは、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』における大きなテーマでもあったが、もし私たち読者が、ナイオールという人間の存在に疑問をもつのであれば、それこそまさに本書の思うつぼ、ということになる。なぜなら、私たちが小説を読むとき、少なくともそこに名前が出てくる人物については、その世界ではたしかに存在するものとして接しているからであり、ナイオールの存在、そして彼がもつ「不可視」の力は、誰よりも私たち読者に彼の実在を疑わせてしまう、という意味で、私たちに影響をおよぼしたことになるからである。だが、これだけは覚えておいてほしい。小説はあくまで虚構であり、それと同様に小説内の登場人物も、どれだけリアルであっても実在しない、ということに。そして、その存在がどれだけ希薄なものであったとしても、この世に実在するのは他ならぬ、小説を書いた作者だけである、ということを。

 華麗な手品で人々を楽しませるマジシャンは、観客の意識をある一点に集中させておくことに長けており、それゆえに観客は、自分たちの意識の外で仕掛けられるタネになかなか気がつかない。それこそがマジックの本質であるわけだが、本書もまさに華麗な手品を目の前で見せられたかのような、なんとも奇妙な読後感をもたらす作品であることだけは間違いなさそうである。(2005.03.30)

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