【角川書店】
『少女禁区』

伴名練著 

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 以前、自動車免許を取得するために教習所に通っていたときに教わったことのひとつに、「子どもは歩く赤信号」というものがあった。大人であればともかく、子どもというのは次にどんな行動をとるのか予測するのが難しい。だから自動車に乗っているさいに子どもを見かけたら、いつでも止まることができるくらいに速度を落とし、注意して運転しなければならない――そういった趣旨をこめた言葉だったと覚えている。

 けっきょくのところ今に至るまで、私が自動車を運転する機会はさほどなく、自動車に乗っていて子どもの唐突な動きにヒヤッとさせられたという経験も今のところないままであるが、子どもというのがとかく後先考えずに突っ走ったり、周囲の状況におかまいなしの振る舞いをしたりする生き物であることは、私もよく知っている。逆に言うなら、そうしたある種の無謀さこそが子どもの特権であり、またそれが若さというものでもあるのだが、そうであるがゆえに、子どもたちがいる風景には、かならず彼らを見守る大人の姿があることが基本だという意識が、私のなかにはある。

 子どもは自身の行動に責任能力を問えない、という意味で、一人前の人間とは言えない存在だ。だからこそ、その保護者たる大人がセットであることを求めずにはいられない心理があることは、たとえばどこかの施設で親とはぐれてしまった子どもの姿がいかに頼りなさそうに見えるかを想像してもらえればよくわかることだ。子どもしかいない、という状況は、ただそれだけで不安定なのだ。今回紹介する本書『少女禁区』には、子どもしかいないということの不安定さが、ある種の不気味さにまで昇華された作品だと言うことができる。

「そう、あたしたちは焼き菓子。――(中略)――がらんどうの心を動かしているのは、きっと、チョコレートの血と、ビスケットの心臓なんだ」

(『chocolate blood, biscuit hearts』より)

 表題作である『少女禁区』のほか、『chocolate blood, biscuit hearts』という短編の二作を収めた本書は、いずれも少年と少女の物語であるが、彼らの置かれている状況は相当に特殊なものである。前者に登場する少女は数百年にひとりと称されるほどの呪詛の才能をもち、自分の両親さえその呪術で殺したとされる鬼子として周囲から怖れられるような存在であるし、後者に登場する姉と弟は、まだ少年少女と呼ばれるような年齢でありながら、世界的な大財閥である鏑木技研の代表という立場にいる。

 本来であれば長年の研鑽のはてにたどり着くような位置に、まだ年端もいかない子どもが就いてしまっているという意味で、本書に収められたふたつの短編は、いずれも非常にアンバランスな危うさを物語の当初からはらんでいる。これはたとえば、西欧ファンタジーでいうところの「魔法使い」が、彼らの振るう魔法の取得に必要な知識の膨大さゆえに「老人」と「杖」のイメージが定着しているところに、いきなり魔法少女的なキャラクターが登場するのと似たようなアンバランスさであるが、本書のなかでリアルなのは、その背景世界のリアルさというよりは、本来であれば教え諭すべき大人としての役割をはたす者が存在しないときに、その子どもがいったいどんなふうに自身の心を歪ませてしまうのか、という点のリアルさに尽きる。

 このあたりの、子どもであるがゆえの歪みという点がわりとストレートに表現されているのが表題作の『少女禁区』で、語り手である少年は鬼子の少女の玩具として、毎日のように呪術の効果の実験台にされている。逆らおうにも、彼女がもっている呪具としての人形には少年の髪の毛が縫いこまれ、針で突き刺せば刺されたところに激痛が走るという代物であり、それでなくとも彼女の呪術の強大さには大の大人でさえ逆らうことができないというのが現状である。しかもこの少女、何か用事を思いつくたびにこめかみに針を刺して少年を呼び出したりするような、気まぐれで、まさにそれゆえに残忍な一面をもっていたりするからたちが悪い。

 大人の庇護下にない少年と少女が登場し、少女が少年のほうを一方的に支配しているという構図――じつはこの構造は、もうひとつの作品『chocolate blood, biscuit hearts』についても踏襲されている。ただし、この作品では何よりふたりの父親であり鏑木技研の創設者でもある鏑木陶彌の支配力があまりに前面に押し出されているうえに、語り手である夕乃の意識はあくまで弟相馬の庇護者という意識が強く、いっけんすると目立たないのだが、相馬の言動をよくよく見ていると、彼は基本的に姉の言うことについては従順であり、兄弟にありがちな喧嘩や対立といったものがいっさい表面化されていない。これも形を変えた「少女による少年の支配」という構図だと言うことができる。

 繰り返しになるが、子どもというのは本来は未成熟であり、それゆえに次にどのような言動をとるのかが予測しづらい生き物である。もちろん、何を考えているのかわからない、という意味では大人においても同様ではあるのだが、子どもについては、私たち大人はどうしても純真無垢な通り一遍のイメージでとらえがちなところがどうしてもある。それゆえに、そうしたイメージから大きく外れる子どもたちの側面を垣間見るというのは、どこか不気味なものと対峙するかのような印象をより強く受けることになる。本書に収められたふたつの短編は、たしかに表面上は少女が少年を支配するという形で物語が進むが、もともと子どもたちを制御すべき大人が存在しないという点で不安定な要素を含んでいるだけでなく、そもそもの一人称の語り手もまた子どもにすぎない、という不安定さをかかえている。

 言い換えるなら、語り手のとらえる相手のイメージ――『少女禁区』であれば、自分を支配している少女の、『chocolate blood, biscuit hearts』では、自分が庇護している弟のイメージは、物事を多面的にとらえるにはあまりに未成熟な子どもの主観によるものでしかない、ということである。こうして、物語のはじまりから危うい均衡の保たれていた少年少女の関係性は、あるときに境に崩壊する運命にある。その体に流れている血はチョコレートではなく、胸で鼓動しているのはビスケットではない。それはあくまで、子ども特有の幻想でしかない。ふつうの子どもであれば、いずれその幻想から抜け出すことになるのだが、本書に登場する少年少女は、正常な出入り口ではなく、まさに壁をぶち破って無理やりに出入り口をつくってしまうような歪みをかかえている。

 けっして純真でも無垢でもない子どもたちの、そうであるがゆえに残酷で美しい物語に、はたしてあなたはどのような感想をいだくことになるのだろうか。(2013.05.31)

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