【幻冬舎】
『銀二貫』

高田郁著 



 商売というのは金を稼ぐために行なうものである。だが、金を稼ぐことそのものが目的になってしまうのは本末転倒だという思いが強くなっているのは、最近まで景気のよかったとある外食産業が、その信用を失うような不始末によって業績を落としているという事実をまのあたりにしていることが大きい。じっさいのところ、ニュースやネットなどでまことしやかに言われていることのどこまでが真実なのかは、素人の私には計りかねるものがあるし、これらの企業の業績悪化には、他にもさまざまな要因が絡んでいるのかもしれないが、ひとつ言えることがあるとすれば、そうした報道に対するこれらの企業の代表ともいうべき経営者の姿勢が、いずれも極端に「あこぎ」な印象をもたれてしまうようなものであったという点である。

 「あこぎ」という単語には、強欲であるとか、ずうずうしくてあくどいという意味があるが、何より強いのは、それが「義理人情に欠く」行為であるというイメージだ。そして上述の企業は、いずれも結果的に、客や社員よりも金を優先しているかのような「あこぎ」なイメージを人々に植えつけることになってしまった。人間社会はたしかに貨幣経済によって回っているところがあるが、それ以前に「人間」のための社会であるはずで、人を大切にしない組織から人が離れていくのは、よくよく考えればあたり前のことなのだが、そういうあたり前に気づかないというのが、現代社会のかかえる問題を浮き彫りにしていると言うことができる。

 今回紹介する本書のタイトルは『銀二貫』。江戸時代に使われていた単位とはいえ、金額がそのまま作品のタイトルとなっているという、珍しくもインパクトのあるものであるが、小判を数える単位の「両」ではなく、それより下の銀貨の単位である「貫」をもちいているところがミソである。

「建部さまの仇討ち、私(わたい)にその銀二貫で買わせて頂きとうおます」

 上述のセリフは、大坂の寒天問屋「井川屋」の主である和助が、たまたま遭遇することになった武士の仇討ちの場面で、父親とともに斬り殺されそうになった少年を助けるために口から出たものであるが、その銀二貫は、彼ら大坂商人の心の拠りどころである天満天神宮――先の大火で消失してしまった天満宮再建のため、無理を承知で寒天製造元から回収してきたものだった。単位が「貫」であるのは、その金があちこちから融通してもらった結果として、ようやくかき集めることができたものであることを示すが、その大切な金を、和助は武士の子どもを助けるために手放したのである。

 こうして、唯一の肉親であった父親を失い、天涯孤独の身となった少年、彦坂鶴之輔は、和助のもとに丁稚として引き取られ、名前も「松吉」とあらためられたうえで商人としての道を歩むことになる。商売のことなどほとんど何も知らない武士の子どもだった彼に、はたしてどんな運命が待ち受けているのか、というのが本書のおおまかなあらすじであるが、それは同時に、「井川屋」の運命とも直結している。本書を読むと見えてくることだが、和助が天満宮に寄進するはずだった銀二貫――今の価値基準をあてはめると、およそ三百万円以上もの大金の寄進を、けっして大店(おおだな)とはいえない寒天問屋がいつ果たすことができるのか、という点が、物語のなかでけっして小さくはないウエイトを占めているのである。

 本書で松吉を銀二貫で引き取った和助は、誠実さと信用という点に何より重きを置く商人として登場する。そしてその志は、番頭である善次郎をはじめ、「井川屋」の主要な登場人物たちにも共通したものとなっている。しかしながら、そんな「井川屋」が取り扱っているのは、寒天という地味な食材だ。それでなくとも彼らの生きる時代は、度重なる大火や飢饉、火山噴火といった天災がつづき、さすがの大坂といえど深刻な不況で青色吐息というところが大半であり、またそれゆえに食材についても粗悪品が横行するような状況にある。和助のような誠実さをもって商売をするような人たちにとって、銀二貫は相当な大金であり、生半可なことでは集められない額であることは、ほかならぬ和助が誰よりもよくわかっている。

 にもかかわらず、なぜ彼は仇討ちを金で買うような真似をしたのか。そこには、たとえば所帯をもたないまま還暦を迎えてしまった和助が、松吉という少年に何らかの見込むところを見いだし、将来は自分の跡取りとして迎えたい、といった思惑もまったくないとは言えないが、この疑問に答えるためには、そもそも彼がなぜ天満宮に大金を寄進しようと考えたのか、という点に目を向ける必要が出てくる。

 よくよく考えてみれば、寄進という行為は商売と直接的に結びつくわけではない。もちろん、それが当時の常識であり、むしろ寄進をしないほうが「非常識」だったという事情もありえるし、そうであればたとえ形だけでも寄進をしたほうが、商売がしやすいという打算もあったかもしれない。しかし本書を読むかぎり、そうした露骨な部分は見当たらないし、そもそも額が大きすぎる。となれば、あとは稼いだお金をどのように使うのか、という点が重要になってくるのだが、寄進という行為にしろ、仇討ちを金で買い取り、少年の命を救うという行為にしろ、自分の欲のためではなく、広く世の人々のために金を使うという発想が、和助たちの心にごく自然に息づいているということになる。

 じっさいに本書では、何年もの歳月をかけて少しずつ金を蓄えはするのだが、けっして天満宮への寄進を第一に考えているわけではなく、そのときどうしても必要だと思われる人たちに対して、和助は寄進のために蓄えていた金を手放すということを繰り返している。金を儲けることは商売人の本分ではあるが、大切なのは金を稼ぐことそのものではなく、稼いだ金をどのように使うかである、というのはよく聞く話ではあるが、じっさいに金を正しく使うのは、私たちが思う以上に難しいものだったりする。

 松吉は、銀二貫で和助に命を救われた。武士の息子だった彼に、銀二貫分の価値があるわけではない。だが逆に言えば、寄進のための銀二貫で命を救われたがゆえに、彼はそれに報いるだけの働きをしなければと思うようになった、ということでもある。商売のなんたるかをまったく知らず、また売り物である寒天のこともほとんど何も知らない松吉が、さまざまな艱難辛苦のはてに、どのような商人として成熟していくか――その成長が、銀二貫を「安い買い物」と思わせるようなものになるかどうかが、この物語最大の読みどころと言える。

 思えば、自分は偶然の出会いによって、今日まで生かされてきた。――(中略)――そうしたこと全てが、今は偶然というよりも、天の配剤に思えた。目には見えない大きな存在に守られ、生かされているのだ。これが和助の言う、大坂商人の大切にする「神信心」なのだとも思う。

 料理の食材として、工夫次第でいくらでもその幅が広がる寒天――武士の息子として生まれ、商人としての道を歩むことになった松吉が、金をもうけるだけの商人ではなく、誰かの思いに報いるための「人」として、その可能性を広げていく様子をぜひたしかめてもらいたい。(2014.11.22)

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