【文藝春秋】
『ゲルマニウムの夜』

花村萬月著 
第119回芥川賞受賞作 



 インターネットという言葉の無法地帯をさまよっていると、まるで他人を傷つけることが唯一の目的であるかのごとく、実にさまざまな悪口や暴言に溢れた掲示板に出くわして、面食らうことがある。それでなくとも、言葉は時として、語り手の意図を無視して相手の心を傷つけてしまうこともある、欠陥だらけの道具である。拳による暴力は人間を肉体的に痛めつけるものであり、時には「殴った手が痛い」ということもありえるが、言葉による暴力は、暴力をふるう側に暴力をふるっているという意識が起こりにくく、しかもそのダメージは肉体にではなく精神に来る。肉体が受けた傷なら、時間が治してくれるだろう。だが、心の傷は時間だけで癒されるものではない。そんな危険性をはらんでいる言葉というものに立ち返ったとき、人々は口を閉ざして沈黙してしまうか、あるいは「言葉を交わすことは、お互いを傷つける行為なのだ」と開きなおってしまうしかない。

 本書『ゲルマニウムの夜』に登場する朧(ロウ)は、本人の言葉を信じるならば、少なくとも二人の人間を衝動的に殺している。もちろん、それが嘘であるという可能性もないわけではないが、おそらく真実だろう。でなければ、誰が修道院などに匿ってもらおうと考えるだろうか。たとえ、そこが警察権力も介入するのをためらうような、外部から隔離された独自の世界であり、かつて孤児だった朧がその幼少時代を過ごした場所であったとしてもだ。修道院、孤児院、教護院――いろいろ呼び方はあるだろうが、少なくとも朧にとってその場所は、外の社会に適応できない問題児たちを閉じこめておくための檻であり、自由と平等と博愛を謳う宗教をかかげていながら、厳格なまでの階級制度で縛られているピラミッド型管理社会なのである。

 朧はその檻の中で、じつに不安定な精神に揺さぶられながら生きていく。院長である白人神父の要求する、手による奉仕をこなし、修道院附属の牧場で巨大なドラム缶に入った残飯を黙々と運ぶ――そんな従順な面を見せるかたわらで、修道女の貞潔を裂く行為におよんだり、同じ牧場ではたらく宇川の口に石を詰めて蹴るという、残虐な一面も持ち合わせているのだ。しかも、けっして頭が悪いわけではない。小さい頃から何でもそれなりにこなし、その気になれば修道士と神に対する議論を戦わせることもできるほどの弁論家でさえある朧のそうした姿は、理性と感情という背反するもののはざまで悩み苦しむ敬虔な信者の姿にも似ている。

 本書のなかで語られている一貫したテーマのひとつとして、美しいものと醜いもの、あるいは聖なるものと俗なもの、その両方に共有されているものの姿をあらわにしたい、というのがあるのではないかと考える。どんな美貌に恵まれた人間も、腹を裂き、内臓をぶちまければ醜い姿となる。また、糞や尿など汚いものが肥料となって、美しい花を咲かせたりすることもある。そもそも犯罪者でありながら、修道院という聖域へと入ることを許されている朧の存在自体が、ひとつの矛盾だと言えるだろう。聖と俗――この相反するものを兼ね備えたものには、人を惹きつける不思議な力が宿るようだ。かつて俗にまみれながらも、最後には聖なるものとして復活したとされるイエス・キリストのように、言葉の力を嫌悪し、執拗に悪ぶってみせ、ときには怒りにまかせて誰かを叩きのめしたり蹴りつけたりすることがあっても最後には語ることによって自分を納得させてしまう、頭でっかちな暴君である朧は、次第に修道院の子供たちの信望を集め、リーダーのような存在へと祭り上げられていくことになる。それはどこか、新興宗教か何かの教祖と信者のような関係を思わせてならない。だが、その教祖に祭り上げられた人は、いったい何に身をゆだねればいいというのだろうか。神? かんじんな時にはいつだって無力である神に、何をゆだねるというのだろう。

 すべての快感の本質は、反復にある。その事実において祈りと性行為がイコールで結ばれることを理解した。僕は宗教の真の快楽を知りつつあった。自我なき反復。これが最上のものだ。キリスト教において性が嫌悪忌避されるのは、快感というひりつくようなおまけで誘って、祈りよりもわかりやすいかたちで簡単に自我なき反復の境地に誘いこむものだからなのだ。

 祈りが自我なき反復をもたらすのであるなら、そして神というものが無力であるとするなら、人々は祈りという言葉そのものに自己をゆだねていることになる。あるいは言葉そのものが神、ということになるのだろうか。語ることは、ときに語り手自身にあるカタルシスにも似た感情を引き起こすことがある。そのとき、私たちは言葉を使っているのではなく、あるいは言葉によって使役されている、言葉の奴隷と化しているのかもしれない。(1999.12.25)

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