【東京創元社】
『六の宮の姫君』

北村薫著 



 私は普通、小説を読むときにその書き手を意識することはほとんどない。それは、小説は書き上げられたその瞬間から作者の手を離れ、独自の生命をもった存在として多くの読者に読まれていくものだという意識があるからであり、実際、ある小説が読者に与える印象は十人十色であるし、また文芸評論家によって作者さえ予想もしなかった解釈が与えられたりすることは、けっして珍しいことではない。不特定多数の人間が、作品を読むことによって受け取るメッセージを、作者はけっして思いどおりに制御することができない、という意味で、小説とその作者とは、たしかに別物として考えるべき存在だと言えるだろう。

 ところで、本書『六の宮の姫君』を含む、一連の円紫シリーズにおいて、女子大学生の「私」が無類の読書好きであることは、シリーズを通して有名だ。とくに日本を中心とする近代文学に関しては非常に造詣が深く、環境的な恵みもあって、私など足元にもおよばないほどの読書量と知識を誇っている。なにしろ『空飛ぶ馬』の頃には一日一冊の読書をノルマとしていたくらいである。その嗜好ぶりは押して知るべし、だ。

 今回、彼女が出くわすことになる謎は、芥川龍之介が執筆した王朝風の物語『六の宮の姫君』について、当人が語ったと言われる、ある言葉である。今年で大学四年生になる「私」は、卒論で芥川龍之介について取り組むかたらわ、みさき書房という出版社ではじめてのアルバイトをする、という生活を送っていたが、その出版社から全集を出すことになった田崎信という、文壇の大御所的作家と知り合い、生前の芥川の話を聞いているときに、その話題が出てきたのだ。

 あれは玉突きだね。……いや、というよりはキャッチボールだ

 さてさて、これはいったいどういうことを意味するのか、ということで、「私」が探偵役となって短編『六の宮の姫君』が書かれるに到った経緯を推理していく、という話につながっていくのだが、今回は「私」の得意分野ということもあってか、いつもなら円紫師匠が担うはずの謎解きを、「私」がほとんど独力で解明してしまう、というのが本書の大きな特徴だろう。もちろん、だからといって円紫師匠の出番がまったくないわけではなく、じつにさりげなく「私」の推理をサポートし、しかるべき結論へと導いていくという、なんとも心憎い演出をしてくれるのだが、物語全体を通してなにより驚くべきなのは、「私」が芥川をはじめとする近代文学の担い手たちの作品について調べたり読んだりしていくうちに、そうした作家たちの名前が、たんに教科書の知識レベルから、たしかに自分たちと同じ人間として生きて、いろいろと思い悩んだりしていたのだ、ということを思い知らされる、ということである。

 それは、常にその書かれた作品だけに注目するという、テクスト論にも近い読み方をしていた私をして、その作者の生き様についての魅力を引き起こしめた、という意味で、非常に有意義なものだったと言っていいだろう。そしてよくよく考えてみれば、常に推理の中から人の心の動きを明らかにしてきた本シリーズにおいて、歴史上の人物を生きた人間へと回復させる「私」の推理は、まぎれもなく円紫師匠の推理と同等のものであり、本シリーズとしてもふさわしいものである。あるいはこう言うこともできるだろう。芸術至上主義的な理想論をかかげ、人間の強さ、高潔さを誰よりも信じたいという願いとともに生きてきた芥川と、その彼と心のキャッチボールをした――いや、はからずもキャッチボールの相手となった人物の心の動きがわかって、はじめて本書の推理は大きな意味をもつことになる、と。

 小説にしろ、あるいは絵画や彫刻、音楽にしろ、一般に芸術と呼ばれるものは、たとえば衣食住とは異なり、私たちが生きていくうえでどうしても必要なもの、というわけではない。だが、本書の「私」は衣服のお金を削ってまで、本にお金をかける文学少女であるし、それは私を含めた本好きな人にとっても同様だろう。種の保存という本能とはまったく関係のないものに血道をあげることのできる人間は、それゆえにときにはどんな残酷なことでもやってのけるのだが、人の心がけっして闇ばかりでなく、また弱く脆いばかりでないことは、前作『秋の花』でも触れられていることだ。そして、僭越ながらひとつだけ推理させていただくなら、本書『六の宮の姫君』の大きな謎である「キャッチボール」は、じつは前作『秋の花』と本書のあいだでも行なわれていたのではないだろうか。

 前作のラスト近くで、円紫師匠はたとえ人が死んでも、その人が生きたという意志は残る、と語った。「例えばモーツァルトの楽譜も記録も演奏も総て消えてしまい、この世の誰一人彼の作品も存在自体も知らなくなっても、それでもモーツァルトの音楽はどこかに残ると思うのです」という円紫師匠の答えに、「私」は「分かるような気がします」と返した。しかし、それはあくまで「気がする」のレベルだ。著者はあるいは、円紫師匠の語った「残っていく意志」に対する返事として、本書を執筆したのではないだろうか。だとすれば、すでにこの世にはいない人物の隠された意志を解明する役目を、あえて「私」に与えたことが、大きな意味をもってくる。

 世の中というのは、案外そのような「キャッチボール」の連続によって成り立っているのかもしれない、と本書を読み終えて強く思う。そして本書『六の宮の姫君』に関して言うなら、円紫師匠と「私」のあいだに、はじめて同じ立場でのキャッチボールが成立した、卒論以上に意味のある作品として仕上がったのではないだろうか。(2001.09.24)

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