【角川書店】
『玩具修理者』

小林泰三著 



 恐怖というものを説明すると、おそらくこうなるのではないだろうか。「恐怖とは、自分では理解できない何かと遭遇したときにおこる感情である」と。動くはずのない死体が襲いかかってきたとき、正体不明の殺人鬼に狙われたとき、物理法則を無視した現象に出くわしたとき、などなど。恐怖するのは、自分の持つ常識では理解で きないからであり、逆に理解してしまえばそれは恐怖の対象ではなくなる。たとえば、人魂の正体と、その発生のメカニズムが科学的に説明されたとき、人魂はすでに理解されたものとして恐怖の対象から外されるように。

 だが、ほんとうにその説明は正しいのだろうか。あるいはこう言うこともできないだろうか。人々は、人魂という超常現象をむりやり科学的に説明することで、かりそめの安堵を得たいだけなのだ、と。そして、ほんとうの恐怖とは「すでに構築されている常識が、常識ではないと気づくこと」にあることに、遅まきながら気がつく。

 『玩具修理者』には、第二回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞した表題作と、書き下ろし作品の一本を収録しているが、そのどちらの物語も、上記で説明したたぐいの恐怖を取り扱っている。『玩具修理者』にしろ、『酔歩する男』にしろ、シチュエーションは昼間の喫茶店で話を聞いたり、夜の居酒屋で話を聞いたりといった、ごくあり ふれたものである。だが、読む進めていくうちに、読者はなんとなく居心地の悪さを感じるかもしれない。それは、これらの作品が、私たちが生まれたときから常識だと信じて疑わなかった事柄に関して、ほんとうにそうかな? という疑問を投げかけているからであり、常識は必ずしも常識ではない、という事実を否応なく知らされるから だろう。

 杞憂、ということばがある。天が落ちてくるのではないかと心配する中国の人の話が語源らしいが、ほんとうに天は落ちない、とはたして言えるだろうか。それまで常識だったものが次々と覆されている現在、すでに常識などという枠組みそのものが無意味になっているのかもしれない。「何も恐怖の対象をわざわざひっぱってくる必要は ない、恐怖なんてほら、そこらへんに転がってるじゃないか」とこの本は語っているような気がするのは、私だけではないはずだ。(1998.10.24)

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