【新潮社】
『ゴールデンスランバー』

伊坂幸太郎著 
第五回本屋大賞受賞作 



 私にとっての自身の過去というのは、懐かしく思い出すものというよりは、なんとかして折り合いをつけていくもの、という意識が強い。それは言ってみれば、自分の過去といまだ折り合いがつけられない状態であることを意味しているのだが、その主たる要因は、若さゆえの無邪気さであり、世間知らずなところであり、それゆえに過去の自分がとんでもなく愚かでマヌケであったことへの恥の意識でもある。つまらないプライドだと言われればそれまでだが、仮に私の過去を知る知人と突然再会するようなことがあれば、ほぼ間違いなく困惑することしかできないだろうと断言できるし、その知人と過去を語り合うという行為には今もなお抵抗が強い。

 できることなら、過去の自分をまるごとなかったことにしてしまいたい、とさえ思うこともあるのだが、同時に私は、そんな過去の痛々しさ丸出しの自分を経ているからこそ、今の自分が存在していることもよく知っている。皮肉なことに、私の読書という趣味や、インターネット上にサイトをつくり、書評を載せていくという行為の背景には、私が大学時代に入っていた、某文芸サークルの影響が多かれ少なかれある。そして、だからこそ私にとっての過去とは、「折り合いをつけるもの」ということになるのだ。

 もちろん、先のことはどうなるか誰にもわからない。とくに、もし寿命が70年あるとすれば、この書評を書いている時点でもうすぐ人生の折り返し地点を迎えることになる私にとって、今後は残り少なくなる未来のことよりも、積み重なっていく過去に目を向けていくことになるだろうことは容易に想像できる。そして、もし仮にそうなったとしても、それはそれで悪いことではないのかもしれない。今回紹介する本書『ゴールデンスランバー』は、そんな過去の痛くて苦々しい思い出を肯定し、糧として先を生きていこうという意思を感じさせる作品である。

「思い出っつうのは、だいたい、似たきっかけで復活するんだよ。自分が思い出してれば、相手も思い出してる」

 本書に書かれているのは、ある非常におおがかりな、そして不可解極まりない事件の顛末である。当時、国際感覚の強い主張で話題となっていた首相、金田貞義の暗殺――彼の出身地である仙台市で行なわれたパレードの最中に、爆弾を積んだラジコンのヘリコプターをもちいて行なわれたこの未曾有の暗殺事件は、当然のことながら日本じゅうの国民の注目の的となり、マスコミもこぞってこの事件をとりあげたのだが、そのとき警察によって暗殺の主犯だと目された人物がいた。彼は数年前に、あるアイドルの住むマンションに押し入っていた強盗犯をとらえたということで、一時期マスコミをにぎわせていた元宅配集配人であり、彼――青柳雅春の情報が警察から公表されるや、今度は非情な殺人犯として祭り上げられることになったのだが、本書はまずこの事件を、事件とは直接関係していない第三者の視点から精緻に描くことで、犯人が徐々に追いつめられていく様子を読者に追体験させ、そのうえで、メインたる青柳雅春の逃亡劇を書くという構造をとっている。

 この第三者の視点から判断するかぎり、警察もマスコミも青柳雅春こそが首相暗殺の犯人であると信じて疑わないような姿勢であり、まるでそのことが前提となっているかのような雰囲気のまま、真偽のはっきりしない情報を無差別に垂れ流し続けるという異常事態が生々しい本書の展開は、じつは青柳雅春が無実であるという事実をこのうえなく引き立てる役割をはたしており、そのあたりの物語の盛り上げかたは見事というしかない。事件当時、同じ仙台市内で大学時代の親友に呼び出されていた青柳雅春は、その友人、森田森吾から彼を陥れようとしている遠大な計画の一部を知ることになるのだが、何人もの人物を駒のように使い、何年もかけて周到に準備されたと思われる陰謀は、それこそ国家規模の巨大さをうかがわせるものであった。「おまえ、オズワルドにされるぞ」という森田森吾の言葉は、他ならぬ青柳雅春自身がその陰謀の生贄とされることを示していた。

 当人の知らないうちに、首相暗殺の首謀者という濡れ衣を着せられ、無実を主張することもできないまま逃亡するしかないという異常事態のなか、はたして青柳雅春に大逆転の機会は訪れるのか? まるでアメリカの大統領だったケネディ暗殺事件を思わせる本書の展開は、その逃亡劇の行方こそが物語のメインであり、またいかにも人の目を惹きやすい、スリリングなテーマであることは疑いのないところであるが、じっさいに本書の中心をなしているのは、青柳雅春がそれまで経てきた過去にこそあり、首相暗殺とその裏にある陰謀は、いわば青柳雅春のそれまでの人生の集大成を飾るための道具立てでしかない、と言うことができる。

 そのことを示す端的な例が、樋口晴子の存在だ。本書は青柳雅春のパートのほかに、樋口晴子という女性を主体とするパートが平行して展開する構造をなしているのだが、彼らは大学時代に同じサークルに所属していた元恋人どうしという関係である。今は別の男性と結婚し、子どももいる彼女にとって、青柳雅春はすでに過去の人物であり、今となっては接点のない他人どうしではあるが、少なくとも彼女は、青柳雅春がどんな人物だったのかをよく知る女性ということで、本書のなかでは特別な意味合いをもつことになる。そして物語は、青柳雅春の逃亡劇を描く現在から、何度も過去の思い出を回想する流れへと移り変わっていく。

 青柳雅春の置かれた状況は、読者の誰もがほぼ絶望的だと思われるようなもので、どう転んでも事態が急変するようなことにはなりそうにない。張り巡らされた陰謀はあまりに巨大で、真犯人が誰なのかまったく見えてこない以上、彼にできるのは逃げることだけなのだが、それでも状況は時間とともに悪化し、確実に追いつめられていく。だが、そのさいに彼を絶望させず、あくまで逃亡するという叛逆を続けさせる唯一の原動力として、彼のそれまでの過去が生きてくる。たとえ、全世界が自分の無実を信じてくれなくても、自分が生きてきた過去だけは間違いのないものだ、というある種の信念――本書のなかで、具体的にそうした心情が語られることはないが、彼の過去が、そして彼の過去を知る知人たちが、必然的に彼の味方として彼の逃亡を支える方向へと動いていくことが、何より本書の本質をよく物語っている。

 樋口晴子が語った「よくできました止まり」だった仲、痴漢だけは許せないという父親の思い出、間に合わなかった映画、花火屋でのアルバイト――ひとつひとつは何気ない思い出に過ぎないものが、思わぬ伏線となって青柳雅春を救うという展開は、あるいは出来すぎだという思いもあるかもしれないが、同じ過去を共有する者たちが、今回の事件を青柳雅春と同じく変だと感じるというのは、けっして出来すぎではない。そして、このうえなく絶望的な本書のなかで、その点だけが救いとなっている。

 本書のなかで、青柳雅春と樋口晴子が直接対面するようなことはない。ふたりのパートはあくまで平行線をたどるだけで、このうえなく近づくことはあっても交わることはない。だが、たとえ会うことはなくとも、今ではもう他人どうしであったとしても、ふたりが経た過去だけはたしかなものであり、だからこそつながっているという思いが生まれてくる。『ゴールデンスランバー』、黄金のまどろみという名のビートルズの曲が、他ならぬ本書のタイトルとして冠されていることの意味は、それゆえに私たちが思っている以上に深いものがある。必死の逃亡のはてに、はたして青柳雅春は何を見ることになったのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.04.18)

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