【ポプラ社】
『学校のセンセイ』

飛鳥井千砂著 



 人と人との関係というのは、言ってしまえばお互いの主観の衝突でもある。それゆえに、人と人との関係がときにわずらわしく、面倒くさいと思ってしまうのは、いたって普通の感覚でもある。大人どうしであれば、そのあたりの距離感をたもちつつ、けっしてお互いに不快にならないよう、当たり障りのないつきあい方をしていくすべも心得ているところだが、精神的にも肉体的にも未熟な子どもたちとのつきあいとなると、そういうわけにもいかなくなる。かつて、私が自分の将来を考えたときに、先生や教師といった職――誰かに何かを教えたり講義したりする仕事だけは絶対に無理だと思い、また学生時代にやってきたアルバイトのなかで、家庭教師だけは避けてきたという経緯は、あるいはそうした意識が影響してのことだったのかもしれない。

 主観の衝突というからには、そこにはお互いの少なからぬ自己主張があり、まぎれもない自分自身というものがさらけ出されてもいる。けっして表面上だけの関係ではなく、より深く相手のことを知りたい、つながっていきたいと望むなら、どうしたって相手の主張してくる主観に触れることになるし、そこに自分の主観との違いがあれば、自然と摩擦も生じてくる。だが、そうした摩擦なり衝突があって、はじめて人は自身のもつ主観の形を認識することができる。相手のこの部分が好き、この部分は嫌い、という認識は、他ならぬ自分自身の快不快を客観視することにもつながっていく。そしてそうした認識は、まぎれもない自己を確立していくためには必要不可欠なものでもある。たとえ、それがけっしてスマートでも格好良いものでもなく、後から振り返ったときに、自分自身のあまりのイタさに「すべて無かったことにしたい」と強く願うようなことであったとしても、である。

「それが教師の務めでしょう」
 そうなんだろうなぁ。
 でも、嫌なんです。面倒くさいんです。じゃあ、どうしたらいいですか?

 今回紹介する本書のタイトルは『学校のセンセイ』。「先生」ではなく「センセイ」とカタカナ書きとなっているところに、一人称の語り手である桐原一哉の立ち位置がこのうえなく象徴されていると言ってもいい。語り手は名古屋の私立高校の社会科教師。出身は名古屋ではないが、全国の教員採用試験をダメ元で受けまくった結果採用された。勤務二年目の新人で、現在は同じ教師の永野の担当するクラスの副担任であるが、といって、とくに教師という職業に熱心だったり、いい先生になろうと頑張っていこうという気概はなく、どちらかといえば生徒たちと適度な距離を置きつつ、仕事に関してはそつなくこなしていくというスタンスを通している。

 語り手はたとえば、飲み屋やパチンコ屋に行ったさいに、そこで生徒を見つけちゃったときなどは、先生という立場であれば注意とか指導とかいろいろしなければならないのだが、そうした諸々について「面倒くさい」とうそぶいてしまう、いわゆる「でもしか先生」のたぐいだ。ようするに、あまりやる気のない教師としての語り手の、学校内で起こる出来事をおもな軸とした物語が本書であるが、それとは別の軸として、語り手が「イエロー女」と称する月森小枝の存在がある。最初にその姿を見かけたときに、あまりに鮮やかなイエローの服を身につけていたというだけでもインパクトが強いのに、そのうえ超がつくミニスカートと、そこから伸びているあまりにも細すぎる二本の足が、周囲から浮き上がったような雰囲気をかもし出す彼女は、飲み屋の隣の席で騒いでいた客に毅然とした態度で注意をする、という行為を見せた。

 のちに、彼女が自分の今住んでいるアパートのすぐ近くに住んでいるという偶然と、彼女の恋人らしき高校生とバイクをきっかけに知り合った関係で、語り手は小枝とも縁故になる機会を得るのだが、たとえば中川という女性について、ふたりで飲みに行ったり、携帯電話でしばしばとりとめのない話をしたりする仲なのに、そこから恋愛というか、より深い関係に進展していくことがなかったりするように、この桐原一哉という語り手は、基本的に何かをきちんと決定づけたり、はっきりさせること――より詳しく言うなら、そうするために抱え込まなければならない諸々の事柄を、意図的に避けようとしている節がある。そして、グレーやシルバー、ベージュといった中間色に象徴される語り手の部屋が、彼自身の中途半端さ、気概のなさを反映しているように、鮮やかなイエローの服に象徴される小枝は、いわばその対極として存在する。少なくとも本書冒頭においては、そんな物語構造が見えてくることになる。

 だが、この対極の構造は、物語が進み、語り手が小枝のことをよりよく知るようになって、少しずつ崩れ出していく。

 スリッパを見ながら呟く。変な女だ。変なのに、変じゃない。変なのに普通の、変な女。

 六十年代のイギリスのモデルであり、日本にミニスカート旋風を巻き起こしたという女優ツィギーを意識しているその服装とは裏腹に、小枝が感じたり考えたりすることは、語り手にも容易に想像ができるほど普通のものだ。いったい、なぜ彼女はツィギーのスタイルを執拗に演出しようとしているのか。そしてなぜ、語り手は彼女のことがこんなにも気になってしまうのか。恋愛をすること、男女の関係を維持していくこと、先生として熱血すること、生徒を指導すること――そうした心の感情を「面倒くさい」と称して、あえて見て見ぬふりをしてきた語り手の意図とは無関係に、永野先生は相手に気を使いすぎる自身の性格を変えようと精神科にかかってしまうし、生徒の若竹は語り手への片想いを露骨に示してくるし、わりと付き合いやすいと思っていた坪井は、語り手のクラスの生徒のひとりがホストらしき危なそうな男と付き合っていると相談を持ちかけてくる。

 桐原が本書の語り手である以上、彼が動こうとしなければ、物語もまた動き出すことはない。だが、そうはいっても周囲の状況は常に変化しているし、そうこうしているうちに、問題は無視できないほど大きなものとなっていく。そういう意味で、彼がいつ動き出すのか――それまで避けようとしてきた人と人との関係、面倒くさいものではあるが、それがなければ自分という存在も空虚なものとなってしまう人間関係とどのように向き合い、より積極的にかかわっていこうと決意するのかが本書の焦点となる。

 自分をさらけ出すことに少なからぬ勇気が必要なのは、それが自身の行動へとつながるものであるからだ。そして行動するということは、そのことによって生じる結果を受け入れるということでもある。行動は、常にその人にとってプラスになることばかりではない。ときにはこのうえなく格好悪かったり、みっともなかったりするものでもあるが、ときには勇気を振り起こして、行動に移さなければならないときもある。本書の語り手はある意味で、ことなかれ主義の「でもしか先生」だが、だからこそそんな彼が、自分以外の誰かのために行動を起こし、人と人との関係をもう少し真面目にとらえていこうとする姿、そのちょっとした変化の兆候は、読み手である私たちにとっても勇気をもたらしてくれるものでもある。若気の至りで考えなしに行動する者、変わりたくないと思っているもの、そして変わったことがすでに普通になってしまい、容易に元には戻せなくなった者――それぞれの複雑な思いが絡み合って綴られている物語を、ぜひとも楽しんでもらいたい。(2009.01.11)

ホームへ