【角川春樹事務所】
『神様のパズル』

機本伸司著 
 第三回小松左京賞受賞作



 何かを知るという行為は、島が大きくなっていくようなものだ、というようなことをどこかで聞いたことがある。知りえた知識の量を島の大きさに置き換えると、知識が増えれば増えるほど島は大きくなっていくことになる。島の大きさは、そのままその人の知的探究の足跡でもある。だが、島が大きくなればなるほど、未知と既知の境目でもある海岸線もまた大きく広がっていく。何かを知れば知るほど、わからないと思うこともまた増えていく――だからこそ知的探究は面白いと思うのか、だからこそキリがないと思うのかは人それぞれだろうが、ひとつだけはっきりしているのは、知識という名の島を大きくするのに必要なのは、「なぜ」という問いかけに他ならないということである。

 何かに対して疑問をもつというのは、ある意味でもっとも人間らしい心の動きだといえる。もし人間に知的好奇心がなければ、世の中がここまで便利になることもなかった。子どもの頃に毎年頭を悩ませていた夏休みの自由研究も、今にして思えばその人の知的好奇心を育てるための課題だったのだと思うと、なるほどと納得することもできる。「なぜ」という疑問がそのまま知的好奇心を刺激して知識を求め、そこからさらに高度な「なぜ」が生まれてくる――たしかに、もし私がはじめて数学の微分積分に触れたときに、「なぜ微分積分というものが生まれたのか」という疑問をもう少し突き詰めていくことができていれば、あるいはもっと微分積分を身を入れて学んでいたかもしれないし、そうなれば、もしかしたら理系の道を歩んでいたかもしれない。だが、もし本当に何かを知るという行為が島と同じようなものだとすれば、けっしてどこにも到達することのない「なぜ」という問いかけは、あるいは人間にかけられた大いなる呪いなのではないだろうか。

「その意味じゃ学校で習うことは、最終章の欠落した推理小説のようなものかもしれない。現場の状況も容疑者たちのアリバイも嫌と言うほどたたき込まれて、真犯人は分からずじまいで卒業だ。まったく馬鹿にしている。そう思わないか?」

 本書『神様のパズル』において、物語の中心を成しているのは「宇宙をつくることはできるのか」という、ある意味で究極の命題である。この命題が読者にあたえる強烈なインパクトが圧倒的な本書であるが、しかしながらこの非常に壮大な命題が議論される環境は、とある大学の素粒子物理ゼミというごくありふれた場所であり、議論する者もごくありふれた学生たちにすぎない。とくに、日記形式で進んでいく本書の中心人物、つまり日記の書き手でもある綿貫基一は今年で大学四年、就職活動に本腰を入れなければならないというのに、卒業に必要な単位はギリギリで、落とせない講義がいくつもあるうえに、ゼミも卒論もこなさなければならない、アルバイトも休むわけにはいかないという、たいして頭もいいというわけでも、将来にはっきりとした目標をもっているわけでもない、本当にどこにでもいそうな大学生という設定だ。

 宇宙をつくるという命題と、大学でのキャンパスライフという、両者のあいだにあるギャップの大きさ、さらには、なんとか無事に卒業できればいいとだけ考えていた語り手が、妙な成り行きで「宇宙をつくることはできるのか」という難解な命題をゼミの研究テーマにされ、できることを証明してみせなければ卒業できない状況に追い込まれてしまうという尺度のギャップが面白い本書であるが、なによりそのギャップによって、素粒子理論や量子力学、最新の宇宙論といった専門知識へのとっつきにくさを緩和し、物理学の用語に不慣れな読者であっても先に進むことができるというひとつの利点が生まれてくる。じっさい、本書のなかにはさまざまな専門用語が頻出し、その圧倒的な物理学の知識が「宇宙をつくる」という命題に信憑性をあたえているのはたしかであるが、その専門知識がほとんど理解できなかったとしても、あくまで似たような立場にいる語り手の視点から物語を追うことで、それらの専門知識に対するギャップがかなりの部分で緩和されていることに気づく。

 さらにギャップという点でいえば、語り手とともに「宇宙をつくることはできるのか」という命題の証明にかかわることになる穂瑞沙羅華というキャラクターもまた、圧倒的なギャップを生じさせる人物である。なにせ彼女は人工授精によって生まれた天才児、四歳で微分積分を理解し、九歳で粒子加速器の基礎理論を発表したという十六歳の大学生であり、現在日本で完成間近である世界最高水準の粒子加速器「むげん」の設計にもかかわっているという、あらゆる意味で語り手とはかけ離れたキャラクターなのだ。

 そもそも語り手が沙羅華とかかわるようになったのは、不登校気味だった彼女をゼミにつれてきてほしいという教授の要望がきっかけだが、その頭のよさゆえに、他の大学生と混じって何かを研究することなど時間の無駄だという沙羅華に、「じゃあ宇宙はつくれるのか」という問いを投げかけたのが、語り手のケチのつきはじめだったりする。お察しのとおり、宇宙の作り方を考えるのは、ほとんどが彼女の仕事だ。じっさい、本書のなかで彼女は、質量とエネルギーが等価であるという点から、架空のものとはいえ、とある最終理論を生み出すところまでたどりついてしまうのだが、周囲の環境のせいもあって、これまでまともな人間関係を築くことができず、人間性としてはまだまだ未熟なところのある沙羅華が、今回の命題を経て、あるいは語り手とかかわることで、どのような変化を見せることになるのか、という点も本書の読みどころのひとつだと言える。

 じつのところ、本書にははっきりとした物語としての筋書きがあるというわけではなく、また沙羅華と語り手とのあいだに恋愛めいた要素がからんでくるわけでもなかったりする。そういう意味では、本書は「宇宙の作り方」という一点に真っ向勝負を挑んでいる意欲作、という捉えかたができるのだが、そうした過程を経て見えてくるのは、物事はけっして一側面からのみでは捉えきることはできない、という一点である。「宇宙の作り方」と書いたが、より正確に書くなら「宇宙が“無”から生まれたのであれば、人間にも宇宙は作れるのか」というのが正しい。「宇宙が“無”から生まれた」というのが、今の宇宙論においてもっとも定説となっているものだというのだが、だからといって、宇宙そのものが無意味だととらえてしまうのは、あきらかに間違っている。

 何かを知れば知るほど増えていく疑問――そんなふうに考えると、知識や頭脳という点では圧倒的なものを誇る沙羅華自身の危うさというものが、少しずつ見えてくることになる。ただの理論からはじまった「宇宙の作り方」が、物語のなかでどのような作用をともなって沙羅華を突き動かしていくのか、そしてそのときに、語り手は何を思い、行動するのか。人間であるということ、人間として生きるということの意味もふくめて、本書がどのような落としどころを用意しているのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2008.09.20)

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