【新潮社】
『ガラスの宮殿』

アミタヴ・ゴーシュ著/小沢自然・小野正嗣訳 



 物事には、かならず始まりと終わりとがある。それは、ひとりの人間の一生についても、あるいはひとつの国の盛衰についても同じことが言える。人は生まれてくれば、いつかは死を迎えることになるし、一度興った国もまた、永遠に存続しつづけるわけではない。ゆえに、ひとりの人間やひとつの国という単位で物事を眺めたときに、私たちは有限であるがゆえのはかなさといったものと向き合うことを余儀なくされる。

 人類の長い歴史において、ひとりの人間の一生などほんのわずかなものでしかない。だが、より大きな単位で物事をあらためてとらえなおしたときに、何かの終わりが、同時に別の何かのはじまりとつながっていることに気づくことがある。たとえば私という人間は、父母の存在と密接なつながりがあり、その父母もまた、それぞれの父母とつながっている。人は生まれては死んでいくが、その血筋は過去から脈々と受け継がれて今にいたっている。そういう意味では、私という個はけっしてひとりというわけではなく、何らかのつながりの結果として今ここにあると言うことができる。

 今回紹介する本書『ガラスの宮殿』は、ビルマ王朝の滅亡というひとつの国の終焉から始まっている。サンパン船の助手兼雑用係として働いていた孤児のラージクマールは、船の修理のため長期滞在することになったビルマのマンダレーがイギリス軍によって占領されるのをまのあたりにする。マンダレーにはビルマ国王とその王妃が住む宮殿があったが、この戦争によってビルマはイギリス領インドの一部として統合され、ビルマ王家は事実上滅んだことになる。その混乱のさなか、暴徒とともに宮殿に入り込んだラージクマールは、王家につかえる侍女ドリーとの邂逅をはたす。

 ラージクマールとドリーとの出会いは、イギリス帝国によるビルマ王朝の滅亡というひとつの終わりがなければ、けっして成し遂げることのできなかった出会いでもある。そういう意味でふたりの出会いは、何かの終わりが別の何かの始まりとつながっている、というひとつの象徴として機能している。そしてこの小さなはじまりこそが、その後百年以上もつづくことになる一族の、ビルマ、インド、マレーシアをまたにかけて広がっていく壮大なサーガのはじまりでもある。

 ふたりが再び出会うのは、最初の邂逅からじつに二十年以上も後になってからのことで、ドリーはインドのラトナギリに追放となったビルマ最後の国王とその家族とともに、ウートラム・ハウスで彼らの世話係をつとめ、いっぽうのラージクマールは、サンパン船には戻らず、マンダレーで出会ったサヤー・ジョンのそばで商売を覚え、やがて材木業に目をつけて大きな成功を収めることになる。西欧列強で台頭しつつある帝国主義に蹂躙される形となったビルマであるが、ラージクマールはその気運を逆に利用する形で強かに生き抜いていこうという気概をもち、いっぽうのドリーは、自分の居場所はウートラム・ハウスにしかない、という思い込みのもと、ひたすら終わったはずのビルマ王家に仕えつづけている。いっけん正反対のように思えるふたりであるが、どちらも自分がまぎれもない自分自身であるというアイデンティティの、しっかりとした拠り所をもつことのできない境遇にある、という点で共通したものをかかえている。いずれもごく幼いころに家族と死別し、あるいは引き離され、自分がどこの国の、どの民族の人間なのか、という帰属意識がきわめて薄く、ラージクマールの富への野心も、ドリーの王家への忠誠心も、それがなければ自分が自分でなくなるのではないか、というある種の怖れの裏返しのものだと言うことができる。

 こうして、ビルマ王家の滅亡からはじまった本書の物語は、ラージクマールとドリーの時を経たラブロマンスによって、新しい家族、新しい一族の礎としての出発点に到達することになる。お互いに血族のつながりから切り離されてしまった者どうしが結びつき、新しい血筋の源流になるという意味では、ふたりの結婚はまさに「別の何かのはじまり」そのものだと言える。そして物語は、けっしてそこで終わるわけではない。時代は彼らの子どもたちを中心に動き出すことになるのだが、大柄で明るく、働き者のニールに、内気で病気がちでありながら、心の奥に芯の強さを宿すディヌ、サヤー・ジョンのひとり娘である美しいアリソンと、ドリーとラージクマールとを結びつけるきっかけをつくった収税官の妻だったウマの弟の子どもたちである、双子のアルジャンとマンジュ、そしてベラ――そこにはひとりの女性をめぐっての愛憎劇があったり、やりたい仕事に対する悩みがあったりするのだが、やがて大きな戦争の陰に彼らの人生にも飲み込まれていくことになる。

 繰り返しになるが、本書はビルマ王家の滅亡によってはじまる物語であり、それはひとつの国が終焉したことを意味する。そして、それにともなう混乱は、ミャンマーと名を変えた今もなおつづいている。以前、桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』の書評において、「私たちの人生は、好むと好まざるとにかかわらず、時代というものに影響されずにはいられない」と私は述べたが、それまで黄金の国と呼ばれ、高い教育水準をたもっていた、そこにあるのがあたり前の国がなくなったことによる混乱は、当然のことながらそこで暮らす人々に大きな影響をおよぼさずにはいられない。ラージクマールとドリーの時代が、拠り所のない地点から新しい礎となることをテーマとしていたとすれば、その子どもたちの時代では、他国の侵略や戦後の軍事政権といった政情不安の国と自身のアイデンティティとの関係について見つめなおすという視点が含まれるようになる。

 チーク材を切り出し、川の流れを利用して都市に運搬する特殊な仕事に就く者たちの、象を使役することの逸話や、やがてゴムのプランテーションが経済の重要な位置を占めるようになっていく過程など、近代から現代にかけてのビルマやインドにおける人々の生活をリアルに書きあげた本書であるが、そうした登場人物たちの側に寄り添いながら、それぞれの国がかかえる微妙な問題をそれとなく提示していくその手法は見事というほかにない。たとえば、イギリス軍のなかには「セポイ」と呼ばれるインド人の兵士たちがいるのだが、いわば金で雇われた傭兵を生業とし、同じアジアに住む人たちとも戦う彼らのことを、ビルマの人たちは理解することができず、ラージクマールも彼らのことを「道具でしかない」と言い捨てる場面があるが、その後、インド人としてはじめてイギリス軍士官となったアルジャンの視点を通じて、傭兵として戦うということ、そして自分の国のために戦うというのがどういうことなのか、その気持ちが少しずつあきらかになっていく。

 そして、そんなセポイの存在を、かつてサヤー・ジョンは「無邪気な悪」と呼び、このうえなく危険なものだととらえるのだが、こうした「無邪気な悪」は、じつのところ登場人物の誰もが多かれ少なかれもっているものでもある。とくに、ラージクマールは材木業で大成するために、なかば詐欺同然の手口でインドから労働力を売買することに手を出しているし、そうした商売優先の考えが、後にインド独立運動に身を投じることになるウマとの確執を深めることにもなるのだが、ひとつだけたしかなことがあるとすれば、ビルマという国の混乱に翻弄されながらも、彼らが懸命になって生きようとした結果としての「無邪気な悪」だということであり、私たち読者はそんな登場人物たちをどうしても憎むことができないのだ。

 親から子へ、さらにその孫へ――脈々と受け継がれていく一族の血筋をたどりながら、ビルマという国の混乱とその先にあるものをダイナミックに描き出すことに成功した本書には、物語というものの面白さ、ひとつの世界がまさに現出することの素晴らしさがたしかにある。はたして彼らを待ち受けている運命がどのような形を成すことになるのか、この壮大なサーガの書き手が誰なのかということも含めて、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.08.19)

ホームへ